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本物は抜き差しならないから

その人はいつも抜き差しならなかったんだと思った。過去に戻ることも、その先に確かなものを見つけることもままならない。

刹那という言葉があるけれど、まさにそれだ。その瞬間にしか息ができない。

想像しただけで苦しくなる。いや、人による。その人の場合は、苦しいとかではない何かもっと別のものだったかもしれない。身体の叫び、心のジンバルの震え、いろんなものがないまぜになった何か。

エイミー・ワインハウスのドキュメンタリー映画『AMY エイミー』を、今さらながらに観て思ったのだ。

本物ってどうしてこうなんだろうと。エイミーは間違いなく本物のアーティストだった。

初めて聴いた瞬間から、僕の皮膚を突き破ってその歌声は入ってきた。内臓の一つひとつを震わせた。あたまでどうこう考える前に、僕の中の何かがエイミーの歌声と歌詞の世界に反応したのを覚えてる。

「本物」の定義なんてあるのかないのかわからない。個人的には定義すらできないものが本物なんじゃないかと思ったりもする。

魅せようとなんかしなくても自然に魅せられてしまうもの。

だけど、本物はその存在がいつも抜き差しならない。100%すぎるのだ。1%でも余計なものを足したり、1%でも奪ったりした瞬間に何かが損なわれたりする。

本物じゃないものって装飾とか欠落があっても存在できたりもするのだけど。

エイミーはまさにそんな100%でしか存在できないアーティストだった。

レコード会社の成功は私の成功じゃない。私が自由に音楽をやれることが成功。私にはもっと音楽のための時間が必要なの。

人々がエイミーの存在を感じ始めた初期、もうすでに彼女は自分の世界の何か1%が自分にはUncontrollableなあれやこれやで脅かされようとしているのを感じ取っていた。

音楽のための時間(それはいろんな意味を含んでいる)が失われれば、本物であるが故に、さらに抜き差しならないことになるのをわかっていたのかもしれない。

最悪だけどわたしは成長した。

『Back to Black (2007年)』の歌詞には、もうあのころの100%の自分ではなくなったことへのどうしようもなさが溢れている。

僕は本物のすごさに打ちのめされるのも好きだし、同時に本物故の脆さも好きだ。

そしてできればどんな小さな世界でも、自分も何か本物でありたいと願っている。そのためには抜き差しならないものを抱えて生きる覚悟も必要なのだけれど。


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