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noteの街を離れる人へ

べつに誰に頼まれた文章でもない。こんなタイトルをつけてるけど、特定の誰かにも向けてないし不特定の誰かに向けてもない。

自分の中で何人かの自分が「どうなんだろうね」と、思いを巡らせてるのを自分自身のためにテキストにしただけのもの。まとまりもない。

一応、そういう前提を理解してフラットに読んでくれる人が3人くらいいればいいなと思う。偉そうだなおい。ほんと、僕なんて全然偉くもなんともないただのヤギなので。

noteとかcakesとかでいろいろあるのは知ってる。といっても、ローマの街角で騒動が起こってカエサルが――という外伝レベルの「知ってる」なので、ほとんど「実際」のことを知らないに等しい。

で、僕はこれまでのどの事象に対しても特定の記事を書いてこなかった。

頼まれもしないし需要もないからなんだけど、それ以前にものを書くときの自分の原理原則があるから。

伝聞、2次、3次情報でセンシティブな要素を含んだ記事は書けない。本当のところどうなのか。もし書くなら当事者にちゃんと直接会って対話して、その周辺というか前後の文脈もきちんと踏まえて書く。

事象の目立つ部分とかわかりやすい部分だけあげつらって何か書いたって、誰かの何かの役に立つとも思えないし。

もちろんそのときもフラットに話を聞く。結論ありきで自分が持って行きたい方向に原稿を走らせるための裏どりみたいな取材はしない。そういうのも、ある種の仕事には必要なので否定はしないけど、僕はする必要がないというだけ。

そもそも、僕は一介のライターで、一連のあれこれに完全に外野なので、関係のない立場からは無責任に何とだって言えてしまう。

本当のところを何も「知らない」のに、知ってるかのように勝手に解釈して、まったく「別の話」にしてしまうのは怖い。なぜ怖いのかといえば、自分だってそんな文章を書かないとは言い切れないからだ。

ただ、モヤっとしないわけでもない。

何がモヤっとするんだろう。しつこいけど、何か物申したいわけでも断罪したいのでも、そんなことどうでもいいじゃんと軽く扱いたいのでもない。

同じく、そこの本当の当事者の人たちがいるとすれば、その人たちの想いや痛み、呻吟を僕は想像はできるけど、それ以上踏み込めない。その想像だって、あくまで僕の勝手な想像にすぎない。

だいたい、人そのものもだし、人がすることでわかりやすいことなんてそんなにないんじゃないか。たいていのものは「よくわからない」のだ。よくわからない失敗もするし、よくわからないことに喜びも見出す。

よくわからないけれど、全体としてはなんとなく大丈夫そうになってる。人も街もそんなもんだ。

簡単に「わかります」と言えるよりは「わからないけれど、そこに何かがあることは少しわかります」と言えるほうがいい。だいたいいつもそう思って生きてる。

街なのだ。noteの街で何か騒動が起こる。街だから群衆も注目するし、なんだかんだ騒ぎになる。その騒ぎ自体が独り歩きを始める。誰かが誰かを糾弾し始めたり、憂いたり、責任追及を始めたり。

だけど、その中に本当の当事者は何人いるんだろう。そこはいつもふしぎだし考えてしまう。

本来は当事者同士が、ときには客観的第三者も交えて話し合う、対話すべき問題。

そこに石を投げたり、何か焚き付けたり、キャンセルカルチャーを仕掛けたりするのも何か違う気がする。

じゃあ街にいる(noteも街という前提で)僕らがとるべき本来の態度は何なのか。そこがたぶんモヤっとしてるのだと思う。

もちろん、そんな問題に関わりたくないし、問題が一切ない街のほうがいいと思う人もいるし、問題が「解決」しない街には住みたくないという人だっている。それもその人の考えなので自由だ。

ただ、街だとしたら住んでる僕らも街を成り立たせてるという意味では当事者かもしれない。

自治とまではいかないけど(そもそも企業が運営してる街なのだ)、自分のレイヤーレベルでもせっかく「人」感を大事にしてきた街で、「人」からたくさんの何かを受け取らせてもらえた街なのだから、やっぱり文句だけ言うのも違う。

街を運営する3条件というのがある。参考になるかならないかわからないけど。

元はアメリカの経営学者チェスター・バーナードが提唱した「組織の3条件」だけれど、街という組織で当てはめて考えてみてもそのまま通じる部分は結構ある。

「協働意思」「共通の目標」「コミュニケーション」

この3つ。いまなら「共通の目標」は「共有する理念」に言い換えてもいいかもしれない。

シンプルだけど、何かしらの理念(noteでも明示的なものとして意識するユーザーは多くないと思うけど、結果的に理念が生み出す街に惹かれるユーザーは少なくない)があって、それを良いものにして良い成果を得るために参加して、そのためのコミュニケーションがあって、というのはnoteの街だって企業で働くのだって変わりない。

noteの街では「協働」がいちばん難しいかもしれない。この場所を一緒に良きものにする、そのための何かを自分のできる部分でやる。そんなの、noteを良くするのは運営側の仕事と責任じゃんって考える人もいる。

本物の街でも、自分らは税金を払ってるのだから街を良くするのは行政の仕事と責任だろと。そのとおりの部分もあるんだけど、そのとおりじゃない部分もある。

この街の空気、居心地は自分たち自身もつくってるのだという当たり前の意識。自分は棚に上げて、勝手に理想を押し付けてそのとおりにならなかったり、何か違ったら否定するのはちょっと大人じゃない。

で、もちろんnoteの街を運営する側も(僕ごときが偉そうなことを言ってるけど)、そこを「一緒に」考えてつくっていく現実的で建設的な仕組みやコミュニケーションがいる。

ただ、これだけ大きなもはや街というより大都会になると、いろんな前提が変わってくるし、そこには当然、ユーザーだけど大企業や大きな組織も絡んでくるし、そうなるとシンプルな3条件というわけにもいかなくなる。

それでも「人」感があること、「人」がつくってる部分が大きいのがnoteの街、noteというプラットフォームの外のメディアにはない良さであり、ときには脆さでもあるのは変わりない。

だからこそ、noteの街で相変わらず「人」と「人」して話せたらいいと思う。そこからしか何も始まらない。