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才能があれば性格は関係あるのかないのか問題

朝からちょっと考え込んでしまった。Bar Bossaの林さんが質問に答える日のnoteで「才能と性格」問題の本質にさらっと言及されてたのを読んだからだ。

昔からよく対比される「才能すごくあるけど性格に問題あるタイプ」「才能はそこそこで性格的に好かれる人」。どっちが仕事の上で評価されるか、身も蓋もなく言えば「どっちが食べて行けるか」問題。

これ、やっぱり現実的には後者なんですよね。あ、一応、すごくマニアックな仕事とかエッジの尖りまくったメディアの話じゃなく「一般的な仕事」の話。僕みたいなライターの「書く仕事」も一般部類に入ります。

世間のイメージだと、ライターとかカメラマンなんかもそうですが、すごく特殊な世界の仕事をイメージされがちだけど、そーーーんなことないですからね。いわゆる「社会的な約束事」とか「社会的コミュニケーション」も要求されるので。

世界は違いますが、芸人のヒロシさん(「ヒロシです」の自虐ネタの人)が何かでつぶやいてたけど、芸能界だって企業で働くのと同じようなスキル(先輩や事務所に気に入られるとか、局の関係者に評価されるとか)がなくて、なまじ才能だけあると地獄だって言います。

芸能人だけじゃなく、どうしても「才能」の部分だけ目立つ職業、アーティストとかクリエイターとか(両者の領域がよくわからないけど)は、才能あるなしの話になりがちだけど、やっぱり「性格」の問題も避けられない。

そこでnoteの記事を読んで自分にもブーメランだったわけです。あれ、自分の性格って全然大丈夫じゃないよなと。

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一応、ライターとして試合に出て打席に立って、決してカースト上位ではないし有名でもないけどまあ業界には残れてる。そういう意味での才能はあるんだと思う。

だけど、いまひとつ突き抜けられてない。そこって「性格」が大きいんじゃないかと。

具体的に自分の性格を突き詰めていくと深いところから戻って来れなさそうなのであれなのですが、自覚できてる部分だけで言っても、「社会的な性格」とは言えない。

どちらかと言えば人見知りで隠れコミュ障だし(だから、あえてライターという職業が向いていて、その辺の話は以前、記事にもしました)、放っておいたら独りで誰ともしゃべらずにいてもまあまあ平気。

なんだろう。他者を拒絶して独りの世界に閉じ籠りはしないけれど、誰かに自分のことをわかってもらいたくて積極的に社交するタイプではないし、全然生産的じゃないテーマをずっと考え続けるの楽しいし、それだと性格的に「社会」や「世界」との距離がおかしなことになる。

才能が少しあっても、性格的に「社会」や「世界」との付き合いに問題があると、結局才能だって生かされず消えてしまう。じゃあ、どうすれば?

ひとつのヒントかもしれないのが、去年、亡くなられた社会心理学者の山岸俊男先生が提示された「信頼」と「安心」を区別する考え方です。

「信頼」とは不確実性のある関係性でも、相手を信頼できる能力が持てる状態。
社会的な上下とかコミュニティーの縛りとかがあまり関係ない場所でも、お互いの人間性、感覚で繋がれるものですね。noteも、ある意味そうかもしれない。

それに対して「安心」は、社会的な関係性とか、組織やシステムの決め事がある前提の確実性の中で相手を信頼できること。

つまり「安心」は個別の人間関係、コミュニケーションをそこまで取らなくてもなんとかなってしまう。そうではなく「信頼」は自分から外部に働きかけたり、外部の評価にさらされたりしながらつくっていくもの。

そこで、いきなり「信頼関係」100%だけで仕事したり生きるのはリスキーで精神衛生上もよろしくないので、「安心」、つまり既存のセーフティーなものに乗りながらも、新しい「信頼」もつくっていく。

僕の場合なら、書籍ライティングとかこれまでやってきて、発注側も自分も「安心」が成り立ってる世界がある。実際、書籍ライティングの仕事では、企画の提案は別にして基本的に新規でこちらから営業するってしないんです。

そこに、新たに外部で書籍やメディア以外の世界でも「ライターのスキル」を活用してもらえて「信頼」をつくれることもやっていこうと考えています。

そうしないと、圧倒的な才能があれば別だけど、少しの才能だけで社会的な性格でもないのに生きていけないから。

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自分の「素の性格」だと、なかなかやらないことだけど、そういう「仕組み」を自分に取り入れて「仕事の一部」としてならできなくはなさそう。

それは「仕事だから仕方なく」というネガティブな話ではなく、仕事だからできてしまうポジティブな面を利用するということです。

また、このnoteでも随時レポートします。