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差別化の穴を覗いたら見えたもの

ビジネスとか商いの文脈で差別化大事だよねという話をよく聞く。この言葉そのものが嫌いな人もいるけど。

あらゆるモノやサービスがコモディティ化(同質化)つまり、どれもそれなりの高いレベルになってしまって逆にどれも大差ない。そんなフラットな時代になって随分たつ。

もはや最近はコモディティという言葉すらそんなに聞かなくなった。

昔だったらスマホで動画視聴できる! っていうだけで差別化だったのが、いまはそれだけでは差別化にも何もならないっていうやつ。

それでも生き残るにはなんとかしないといけないので「差別化」を考えるのだ。

この前も歴史的構造的にもコモディティ化が避けられない、ある業種の人と話してたのだけど、ほとんどの人が、差別化を間違ってるみたいだとその人は言う。

「周りを見て違うことをするのが差別化と思い込んでる」

え、それが差別化がじゃないの?

そんな声が聞こえてきそうなのだけど、ここにも差別化のトラップがある。ポイントは「周りを見て」という点なんだと思う。

まあ、差別化っていうワードまで使わなくても、このnoteなんかでもなんとなく他の人と違うことしないと意味ないみたいなのを感じるときがある。

そういうときって、だいたい「周りを見て」言ったり思ったりしてる。周りがモノサシなのだ。

だけど、その人が言うには「周りを見てしまってる」時点で差別化から遠ざかってるらしい。むしろ同質化のほうに近づいてしまってる。どういうことなのか。

周りを見て思いつくとかレベルのことだと、そのときはオリジナルで差別化に思えても、いずれ誰かが簡単に真似したり模倣する。なぜなら、その人たちも「周りを見てる」から。

それ、いいね、やってみようとか、そこからヒントになって派生したら同質化になってしまう。

むしろ本当に差別化出来てしまう人は、周りとか見ていないし見るつもりもない。周りがやっていようがやってなかろうが関係ない。

こんなこと誰もやらないしやりたがらない。そこまではやらない。みたいなことを、ただ本人は「やりたいから」「それしかないから」でやってしまってる。

まあこれって「書くこと」に置き換えても同じことが言えるかもしれない。本当にその人にしか書けないことを書いてる人は、周りを見てない。

で、結果的に周りが気付いたときには差別化できてしまってるのだ。差別化を考えないほうが差別化になるというパラドックス。


差別化を覗くとき、差別化ももまたこちらを覗いているのだ。