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曖昧(あいまい)でいいんじゃない?

Aのような気もするし、Bのような気もする。というかAでもBでもアリな気がする。

何かにつけて、そんな態度はあまり好意的には見られない。どっちかはっきりしろよと。

なんだろうな、この何にでも白黒つけたがる空気。まるで「正解と不正解」「表か裏」しか、この世に存在しちゃいけないみたいだ。

酔っ払い的に(飲んでないけど)すごく論理を飛躍させて言うと、マイルドなネット原理主義の時代に入ってから、余計にそういう空気というか圧が強まっている。

みんなの正解から自分だけ外れている状況がネットによって可視化されることで、正解から外れた組はすごく居心地が悪くなる。まあ、中にはべつに気にしないでいられるメンタルの人もいるけれど。

正解と不正解、表と裏「どっちも」抱えて生きてる組としては、ときどき自分の曖昧さで周囲を惑わすのが申し訳ない。

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たとえば、野菜。ふみぐら家では信州に移ってから、さもそれが当然かのように小さな畑で野菜をつくってるけれど(いまのところ売ってはない)、自然栽培をしてるので農薬・化学肥料は使わない。

という話をすると、なんだか周囲からすごくストイックなナチュラリストをイメージされて「あれでしょ、カップヌードルなんて食べないんでしょ」とかよく言われるわけです。

いやいや、全然食べます。朝ドラは関係なく食べます。もちろん、たまにだけどまったく食べないなんてない。

そういう食生活って「はっきりしてない」と言われれば「そうですね」としか言いようがないんだけど。

割合としては、野菜(やっぱり地元の野菜おいしいし)中心の食が65%、肉とか魚とか25%、その他ジャンキーなものとか10%ぐらいの感じで摂取してるかも。数字すごく適当です。イメージ。

でも、自覚できるレベルで明らかにいまのほうが食生活的に豊かな気分でいられるのでべつにいい。ナチュラルなのか非ナチュラルかどっちかに決めると、やっぱりどこかに「無理」が入るんじゃないのかな。

ちょっとすぐにソースが出てこないけれど、たしか心理学的にも「曖昧さを許容して楽しめる人の方が幸福度が高い」という調査結果もあった気がする。

それで思い出したけれど「ネガティブ・ケイパビリティ(消極的能力)」という概念もそうだ。19世紀イギリスの詩人、ジョン・キーツが提唱したもの。

すごくざっくり言うと「わからないものをわからないまま受け入れる能力」。人って「わからない」というのが気持ち悪くて、なんとかわかろうとしたり、わからなければ否定したりしたくなる。

そうじゃなくて「わからない」を「わからない」として受け容れるのだ。それができると、すごく楽。

AでもBでもどっちでもアリだから「わからない」。食生活も基本的にナチュラルだけど、ときどきジャンキーも入ってるから「わからない」。

それで本人がバランス取れていれば何も問題はないのだ。