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刺身に花を乗せる人生

インターネットには日々どうでもいいことからどうでもよくないことまで、雑多なあれこれが流れてくる。

まあ、そんなの淀川とか多摩川の近くに住んでいて「川に水が流れてる!」と驚かないように、インターネッツ川にはいつも大量の何かが流れてるものだ。

なのだけど、たまに「なんでこんなものが?」と目を止めてしまうものもある。

今日も梅雨の晴れ間だからか、洪水気味のツイッタ川(久しぶりの晴れ間ってやっぱり呟きが捗るんだろうか)にこんな言葉が浮かんでいた。

「――刺身に花を乗せる生活」

いや、正確には診断メーカー(ジェネレーターですね)で生成された言葉の一部なんだけど、なんだかその言葉は、ただのジェネレーターにセットされた言葉の世界からちょっとはみ出てる気がしたのだ。

(気になる人は #はたらく言葉たちメーカー で探してみてください)

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文脈的にはいろいろアイロニーというかイロニーの世界に通じてるのだけど、そこからはみ出た部分で「刺身に花を乗せる生活」って、なんだか「誘われる」気がする。

個人的には「刺身に花を乗せる生活」が世の中で言われるほど退屈にも単調にも思えないのだ。なんだろう。刺身だからなのか。

これが「生肉に花を乗せる生活」だったら、ちょっと儀式的というかアートな趣が出てくるし「豚まんに花を乗せる生活」だと全関西人に「いらんことせんでええって」とつっこまれる。

そう考えるとやっぱり「刺身に花を乗せる生活」は、なんだか許される感じがするし悪くない。

インターネット世界も成分表示がしっかり書かれて、エビデンスもあって、すぐに使えて得るものが多くてゴールも明確な話が大量に流れてるけど、そんな中で「なんだこれ?」と、よくわからないけど何かひっかかるものがあったときは、そっと掬い取ってみる。

それで何がどうなるわけでもないけど、ちょっとだけ世界がずれて見えることもあって、そのずれた隙間に「自分はこういうの好き」と思えるものが見えれば、それも意味がある。

刺身の花も基本的には食べないんだし、だったら最初からなくてもいいじゃんという考え方もあるんだけど、それでも個人的には刺身に花を乗せる人生か、乗せない人生か選べと言われたら、刺身に花を乗せる人生を選びたいのだ。

なんでだろう。