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個人的なこと

ずっと脳が走り続けてる(気がする)。いや、最低限の睡眠は確保してるし、睡眠分析なんちゃらのデータも一応「睡眠の質」は70点台をキープしてるから、脳は脳のほうで適当に休んでくれてるらしい。

よく考えたら脳って自由だな。自分のものであり自分のものでもない。宇宙。

たぶん、休まらないのは気持ちのほうなんだろうな。

ここ何カ月も通常業務はエンドレスだし、その合間にいろいろイレギュラーもあったりして、なんやかんや対応しつつそうこうしてる間に新たな案件がいくつかキックオフするし。

あと、去年今年と地区の役員(最年少…)やってるのでその業務とか行事とか事務的なあれこれもその中でうまくさばかないといけない。

地区の役員といっても、外からはなかなか何してんのかイメージしづらい。

うちの村の場合は、行政の一部みたいな役割も担ってるから(いわゆる親睦的な町内会組織ともちょっとニュアンスが違う)、この時期は前年の会計監査や予算編成やら総会やら会議、新年度の準備でやることがあほほどある。

村暮らしでは「人」がいろんなリソースだから、そこをちゃんと気持ちよく動けるようにするにはそれなりに「人」が動かないとはじまらない。まあ、そういうのもおもしろいしなかなかできない経験させてもらってるのだけど。

みたいな「個人的」な話って、たぶんほとんどの人にはどうでもいいことだ。わかってる。

じゃあ、なんでわざわざ書くのか。なんでだろう。あらためて考えてみると、それもこれもぜんぶが「生きること」だからだ。

僕は「生きることを仕事にする」を自分のタグラインみたいにしてライターをやってる。そんなやつの書くnoteだから、こういう個人的な話も紛れ込んでくる。読みたくもない人には申し訳ないです。

村暮らしのライターという生き方を選んだのは自分。そんな生き方に興味ある人がどれぐらいいるのかいないのかはわからない。ほんとにI don't know.だ。

生きることなんて大きな言葉だけど、仕事にだけ最適化しようと思えばそれができてしまう東京にいたときは「生きる」と「仕事」はうまく切り離せた。そのほうが楽な部分もあったし、何か物足りないものもあった。

こっちでは「生きる」の中に「仕事」もあるし、「仕事」の中にしれっと「生きる」が入り込んできたりする。だから、いちいち切り分けてなんていられないのでぜんぶが「生きる仕事」としてやってる。

まあ、端的に大変なときもある。ここ数か月とかもそうだけど。

でも、大変だからわかることもある。ほんと、見えないところで誰かが助けてくれていたり、応援してくれてるのが伝わってきたり。

べつに、あいつのために力になってやるかとかじゃなくても(そこまで自分に人望があるわけじゃないと思う)、人って本当に自分の損得を超えた、もっと大きな良きもの(Social Goodにも通じるのかもしれない)のためにも動けるんだって理屈じゃなくわかることがあるから。

その「わかる」に包まれたとき、ささやかでもやっててよかったと思う。ただ、それだけなんだ。