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「今から村に帰ります」と言った瞬間、僕は

夜の6時とか7時。

東京で打ち合わせや取材が終わって「じゃあ帰ります」と言うと、「今から村に帰るんですね」と返されることがある。僕が信州の村に移り住んで、そこから出て来ていることを相手が知ってるからだ。

「そうですね。今から帰りますよ村に」

だいたい笑いながら僕もそう答える(というか、その通りなのでそうとしか言いようがないのだけれど)。

すると、「今からほんとに村に帰るんだ!」というニュアンスで軽く驚かれるというか、すごいっすね的な空気を感じることがまあままある。

べつに嫌な意味で言われてるわけでもないので、ほんとにそのまんま僕も受け取っている。

だけどやっぱり「村」感の欠片もない都心で、その中で当たり前に取材や打ち合わせの日常的な時間にいる人(僕だ)が、次の瞬間には「村」という都心の位相からすれば非日常な時空に帰ろうとしているのは、人によってはすごく不思議に感じられるみたいだ。

とくに相手の行動世界が、プライベートも会社も都心にあって、あまり旅だとかアウトドア的な志向がなく、ほぼほぼ都心で過ごしている人だと余計にそういう感じになることが少なくない。

その度に、僕は自分でも「そうか、今から村に帰るんだ」と、自分にとっては当たり前になったことを、ことさら新鮮に思わせてもらえるのでおもしろい。

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きっと僕が帰る場所が福生市(福生市に特に意味はないです)だったとしたら、相手も「今から福生市に帰るんですね」とは言わないと思う。そのとき福生市が何かでバズってたりしなければ、あるいは言った相手に何か思い入れがある場所でなければ、それはただの町にすぎないからだ。

そう考えると「今から村に帰る」は、それだけのことなのになんだか特別感が出てしまっているので、何をするわけでもないのに浮遊感を味あわせてもらってる気がしないでもない。

なので、僕は村に帰る新幹線の中が好きだ。ふつうに考えれば仕事帰りの電車であって、若干の疲労とか解放感や虚脱感に包まれるのだろうけど、「今から村に帰る」時間はそうした時空とは少し違っている。どこにも属さない、こぼれた時間。

もしかしたら、その時間、僕は「どこにもいない」のかもしれない。ありえないことではないなと思う。

都心には、まだ打ち合わせをしている僕がいて「今から村に帰るんですね」と誰かに言われていて、村ではいつもみたいに薪を運んだり画面をにらみながら真顔で原稿を打ってたりする僕がいるのだ。

新幹線が静かな衝撃音とともにトンネルに突っ込むように入る。僕は窓に映った僕であるはずの僕を見つめ、何か変だなと思う。

トンネルを新幹線が抜けた瞬間、僕は首を逆方向に向け、乗客の気配がしない車内をちらっと見る。