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なぜ書き続けるのか

師走ですね。あるいは年末。あと、最近、以前よりクリスマス云々あまり言わない気がする。個人レベルでもメディアでも。

あ、でも気のせいかもしれない。自分の周りが静かなだけでめっちゃクリスマス盛り上がってる人もいるかもしれない。

まあ、もともと日本の場合、クリスマスのポジションというか建て付けが独特だったから(もちろん宗教的意義においては別)、とくに何もないでも問題ないのだけど。

それはともかく、この時期って時間がブラックホールに吸い込まれる如く、なにかすごい重力がかかって時間が脱出不可能になってしまう。そのうち超臨界降着で時間が飛び散ってもうわけがわからない。

だからなのか、これも毎年そんな気がするけど、この時期ってnoteの街の人たちもみんな忙しくてあまり立ち止まらない。端的に読む人は減る。なんかね、それはわかる。

「ちゃんと」読めなくて、眼を滑らせるくらいなら潔く読まない。読むならちゃんと読みたい。で、noteの積ん読もどんどん増えていく。そのうち雪崩起すかもしれない。

なのに、こうやって自分はnoteを書いてる。こんなの書いてるって言えないものではあるけど。取るに足らないもの。

時間にすれば僅かなものでも、まあとにかく書く。書き続ける。

なぜ? と思わないでもない。なぜ書き続けるのか。単純に毎日書き続けないと自分が気持ち悪いからというのはある。プロのアスリートが毎日、試合があろうとなかろうと何かしらトレーニングを続けるのと同じ。

でも、それだけならnoteじゃなくてもどっか勝手に公開されないとこでも書いてればよくて。

一応、誰かの目にも触れるかもしれない前提でものを書く。書き続ける。だからってすごく確実に読まれないといけないものでもなく、そこには一次的な発注者もクライアントもユーザーもいない。

勝手に書きつつ、たまに街を行き交う人が立ち止まることもあるぐらいの感覚。立ち止まるか立ち止まらないかの確率は5割。

で、1週間書き続けたとして、その間、毎日立ち止まって読んでくれる人の確率は0.5×0.5×0.5×0.5×0.5×0.5×0.5=0.0078125だから1%もいない(あくまで理論上)。

というぐらい僅かな確率で誰かが立ち止って読んでくれたときに、書いたものを通して何が渡せるのか。気が紛れたでも、何か発見があったでも、考えるヒントもらえた、和んだでも何だっていいのだけど、何かあればいい。

逆に言えば、その「何か」がちゃんと出せるか。それを自分で自分に確かめるために書き続けてるふしもある。

まったく何もない(それが意図的にデザインされて、その先があるものを除けば)というのは書き手としてブラックホールに吸い込まれるのに等しいから。

というのは「なぜ書き続けるか」のほんの一部。たぶん、もっとあるのだけど時間と文字数――。