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ある詩人のことば
昨夜の遅い、日付のまわった時間帯。仕事に行き詰まって、本を読んでいた。
行き詰まるというのは、自分と状況とを客観視できなくなることだ。そういうときぼくは、「遠いところ」の本を読むことが多い。自分が亜熱帯のジャングルをさまよっているとしたら、南極に住む皇帝ペンギンの生態に関する本を読む、という感じだ。
そこで出合ったのは、ある詩人の、こんなことばだった。
日本にはたしかに素人詩人が多すぎるようだ。彼等はまるで中学生のように、自分のいいたいことばかりを、勝手な言葉でいい散らす。そこには読者への心づかいもなければ、商品としての体裁もない。そうして一方では彼等は別の職業で糊口をしのいで、詩はただの告白や宣伝の道具にしてしまう。
そして詩人は、こう続ける。
詩をつくるということは、個人的な情熱のはけ口ではない筈だ。それを一個の商品と考えていい程、詩は社会的なものである筈だ。ぼくらはいいたい放題をいえばいいのではない。ぼくらは常に自己への誠実と、社会への誠実との間で苦しまねばならないのだ。詩の技術の問題もそこにあるのではないだろうか。片手間に医者がつとまらないのと同じように、ぼくらは片手間に詩は書けない。詩人が職業として成立しない社会は勿論いけない。同時に詩人を職業と考えない詩人もいけないとぼくは思う。
ある詩人とは、谷川俊太郎さんだ。
はー、さすがに谷川さんだなあ。と感心するのはたぶん、少しだけ早い。この文章が書かれたのはいまから60年前の1955年、谷川俊太郎さんが24歳のときのことだ。24歳の詩人は、「なぜ詩をつくるのか?」の問いにこう答えている。
その先ず第一の答は、そうしたいから、という答であり、そして次の答は、そうしなければならないから、という答だ。
さらに、ここまで踏み込む。
つくりたい、という気持は、詩人の情熱なのだ。そしてつくらねばならぬ、という気持は、詩人の広い意味でいって道徳(モラル)である。前者は詩人の宇宙的(コスミック)な生命のあらわれであり、後者は詩人の社会的(ソシアル)な人間のあらわれであると考えていいとぼくは思う。一つの詩は、作者の意識的であるなしにかかわらず、つくりたい、に出発して、つくらねばならぬ、を通って完成へと導かれるものだとぼくは考える。
もしかすると80歳をこえた2015年の谷川俊太郎さんは、これとは違ったことばで「なぜ書くのか」を語るのかもしれない。これを読んだら、若いよねえ、と苦笑いされるのかもしれない。でも、60年前のあなたがそこいて、これを書いてくれた事実に、ぼくはとても感謝する。24歳のあなたに。
「きみはこれをつくりたいか?」
「きみはこれをつくらねばならぬのか?」
「そこにパッションはあるか?」
「そのパッションに、モラルはあるか?」
「自己に、社会に、誠実であるか?」
これから先ずっと、ぼくはこのことばを自問することになるだろう。谷川さんと同じだけ、60年も問い続けてたら、100歳になっちゃうのか。
いやー、まだまだひよっこだ。目が覚めましたよ。
※ 引用元は『詩を書く なぜ私は詩をつくるのか』(詩の森文庫)収録の、「詩人とコスモス」です。