来週になれば、また忘れるのだろうけれど。

たとえば焼肉を、腹いっぱいに食べる。

カルビはおろか、ロース肉や白菜キムチの一枚さえもこれ以上入らない、というくらいに食べる。あー、食った食った、なんて腹をさすりながらの帰り道、コンビニエンスストアに立ち寄る。罪滅ぼしの黒烏龍茶を手にとり、習慣として、あるいはなんだかよくわからない礼儀として、お菓子コーナーに立ち寄る。もともと大好きであるはずのドリトスや源氏パイが、ちっともうまそうに見えない。むしろ見ているだけで吐き気がするくらい、魅力を感じない。明日になって腹が落ち着けば、「あそこで買っておけばよかった」と後悔するであろう自分を知りながら、どうしても手が伸びない。そしてレジ横から立ちのぼるおでん臭に胃液を逆流させながら、細長い黒烏龍茶のみを購入する。焼肉でもカレーでも中華でも、腹いっぱいに食べるとだいたいそんな感じでコンビニをあとにする。満腹の人間には、空腹という状態が理解できず、想像できないのだ。つい数時間前まで空腹だったにもかかわらず。


ぼくは二十代の一時期、正真正銘の「めしが食えない」状態を味わったことがある。満腹で食えないのではなく、めしを買うお金がなくてどうにもならなかった時代が、短いながらもある。パンの耳や、具なしカレーで飢えをしのいでいた時代が、半年以上ある。

いま当時のことを振り返ると、「たのしかった」としか思えない。肉を買うお金がないので無料配布されている牛脂を入れ、牛の香りがするカレーをつくっていた時代が、なぜかたのしい思い出として心に残っている。それゆえいつも「いざとなったら、あの時代に戻ればいいだけだ。あそこに戻る準備はいつでもできている」と思って生きてきた。

でもなあ。ぼくはほんとうにいつでも「あそこ」に戻れるのだろうか。

誰からも知られず、誰からも必要とされず、仕事のアテもないままアパートに閉じこもり、牛脂で具なしカレーをつくって食べていたあのころの心細さを、ぼくはほんとうに想像できているのだろうか。

というかあのころ、実際のところ自分は毎日なにを考えていたのだろうか。なにも考えていなかったのだろうか。正直、ほとんど憶えていない。


いやね。ひさしぶりに風邪を引いて、薬でいろいろ抑えているけどぼんやりと心細くって、「ああ、そういえば風邪って身体的なつらさだけじゃなくって、こういう心細さがセットなんだよなあ」と思い出したのでした。

もう何十回も引いているはずの風邪なのに、やっぱり忘れちゃってるんですよね。その都度見事に、ぞわぞわする心細さは。


馬の耳に壇蜜。
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古賀史健

古賀史健(2018)

古賀史健の note、2018年分です。
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