見出し画像

参加しない人も含めた「みんな」の話。

いやはや、たいしたもんだなあ、と思う。

ラグビーのワールドカップだ。もともと、新国立競技場のこけら落としの場となるはずだったラグビーワールドカップ。しかし、ザハ・ハディドの案が暗礁に乗り上げ、競技場の建設が大幅に遅延。そこに漂う「オリンピック・パラリンピックには間に合わせるけど、ラグビーはもう横浜で我慢しろ」な雰囲気自体がもう、ラグビーの国内的ポジションを物語っていたし、事前の盛り上がりもイマイチだった。大会の成功は、おおいに危ぶまれていた。

それが蓋を開けてみたら、しっかり盛り上がっている。スタジアムはほぼ満席になっている。チームシャツを着込んだ外国人観光客たちも、やたらたのしそうだ。


もちろん、盛り上がりをまるで実感していない人もいるだろうし、「あっ、もうやってるんだ?」な温度感の人だって多いとは思う。「お前が盛り上がってるだけだろ」と思う人も。

でも、それでいいと思うのだ。

もう、国を挙げてのお祭り騒ぎ、みたいなフィーバーを期待するのは間違っていて、満員のスタジアムと8%前後の視聴率(つまりはゴールデンタイムでの地上波中継)。それさえあれば十分だと思うのだ。


というのも、「国を挙げてのお祭り騒ぎ」をつくろうとすると、どうしても対立が生まれる。たとえば来年のオリンピック・パラリンピックでも、祭りに夢中な人は、醒めた人を見て「なんで貴様は応援しないのか! それでも日本人か!」みたいなことを言い出しかねない。一方、醒めた人たちはお祭り騒ぎな人たちに「黙れ。うるせえ。仕事の邪魔だ。消えろ」なんて呪詛を吐きかねない。オリンピック・パラリンピックのシーズン、サッカーW杯のシーズン、あるいはハロウィン前後の渋谷などで、ぼくらは何度もそうした対立を目にしてきたはずだ。


盛り上がる人は盛り上がり、興味のない人は淡々と過ごし、そんなお互いをうまく認め合って「たのしそうで、よかったね」と言い合える成熟が、今回のラグビーワールドカップにはある。そんな気がして、ぼくはちょっとうれしくなっている。このお祭りに、日本の全員が参加する必要はもちろんないのだけれど、「参加しないみんな」の許容・協力・黙認があってこそ成立するのがお祭りなのだ。


あと、個人的にうれしかった動画。

ラグビー・ウェールズ代表にウェールズ国家を歌って歓迎する北九州のみなさん。


サインをもらいながら、(みんなで練習した)ウェールズの賛美歌を口ずさむ子どもたち。



この動画を見て、来年のオリンピック・パラリンピックの成功を確信できた気がした。好きだなあ、こういう「おもてなし」。