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お片づけと3月11日。

「では、こちらに本日の日付と、青の太枠のなかを書き込んでいただいて」
「えーっと、いまって平成28年でしたっけ?」
「はい。28年の、ちょうど3月11日ですね、本日は」
「……早いですねえ」
「そうですねえ、ほんとうに」

きょう、銀行で手続きをしているとき、ふと日付の話になった。「あの日わたしは」。銀行員さんは、するすると語りはじめた。東京駅近くの本店に戻ったところ、地震がやってきた。電車がすべてストップしたため、臨時バスで帰宅しようとしたものの、自宅までたどり着くことができず、知り合いの家に泊めてもらった。およそ、そんな話だった。

あのときぼくは、自宅近くに借りてたワンルームマンションの事務所で原稿を書いていた。体験したことのない大きな揺れで、壁一面の本棚から本がバンバン飛び出してきた。そして揺れがおさまると、ひとまず床に散らばった本を半分くらい棚に戻し、家に帰った。ほんとうは仕事を続けようとしたのだけど、電話がつながった家人から、それどころじゃないでしょ、と言われ、戻った。たしかに、それどころじゃなかった。

東北のこと、余震のこと、福島第一原発のこと。家に帰ってテレビをつけた途端、たくさんの「それどころじゃない現実」が飛び込んできた。阪神淡路大震災のときは、地震の発生が早朝だったこともあり、そして九州にいて揺れを直接感じなかったこともあり、半分「事後」のものとして報道に接していた。けれども今回は「いま起こっていること」と「これから起こるであろうこと」の両方を突きつけられ、途方に暮れてしまった。


それできょう、銀行員さんとしゃべっているときに、ひさしぶりにあの日のじぶんを、部屋の風景を、思い出した。津波の映像でもなく、瓦礫の映像でもなく、福島第一原発の映像でもない、じぶんの部屋を。

もしもあのとき、本やら資料が散らばったまま、片づける機会を奪われていたとしたら、ぼくはずっと地震の恐怖とともに5年間を過ごしていたような気がする。時間が止まっていたような気がする。散らばったものをあるべき場所に戻し、なんならついでに整理整頓し、視覚的なぐちゃぐちゃを正すことができたからこそ、時計の針が進んだのだと思う。


大掃除をする。模様替えをする。いっそ転居する。このへんの効用って、ほんとうにばかにできないものですよね。イケイケの企業が頻繁に引越をくり返すのも、もしかしたらカオスになりがちな日々を整理整頓しているのかもしれません。