見出し画像

はたらく街のあかりたち

深夜のSNSで、「わたし、まだ仕事してます」的な投稿をすること。

これについて、多くの人は鼻で笑います。忙しいおれアピール、寝てないおれアピール、こんな夜遅くまでがんばってますアピール、要するに仕事のできないやつによる「かまってちゃん投稿」だと。

たしかにその指摘、否定できない部分は大いにあるでしょう。こんな時間までがんばってる自分を知ってほしいとか、多忙すぎるおれカッケー的な、飲めないブラックコーヒーをセットして、はちまき締めちゃう受験生みたいな、それより単語のひとつでも覚えろ的な、どこか滑稽な自己陶酔が入り混じってるのは事実です。

ただ、そうともばかりいえないところもあって。というのもこれ、「街のあかり」みたいなものでもあると思うんです。ほら、遭難した人を描くドラマやマンガで、まっ暗な森や夜道を抜けていった先に、人家や街の「あかり」を発見するシーンがあるじゃないですか。一気に視界が開けて「あかりだっ!」って叫ぶ、もうれつな安堵感と開放感を与えてくれるシーン。

むかしから、「深夜に書いたラブレターは破り捨てるべし」っていわれますけど、どうして深夜のラブレターが読むに堪えない自己陶酔ポエムになるかというと、その空間が「ひとり」だからなんですよ。

邪魔者がいないという全能感と、誰もそこにいないという孤独とが、ぐっちゃぐっちゃに攪拌されて、自己陶酔ポエムを書かせる。孤独って、かんたんに人のこころをねじ曲げる、かなりおそろしいものなんです。

そしてこれ、思春期の深夜ラブレターにかぎらず、徹夜しながらの仕事にも同じことが言えるんですね。「こんな時間に働いてるのはおれだけなのか?」「なんでこんなことやってんだ?」「そもそもこんなスケジュールになったのもあいつが……」みたいに、こころがねじ曲がりそうになる。くじけそうになり、さぼりそうになり、雪山で眠ったら死んじゃうよと聞かされてるはずなのに、うとうと眠りそうになる。

そんなとき、タイムライン上で同じ境遇にある人を発見するわけです。がんがん働いてる人、ぜんぜんそれを当たり前にしてる人、むしろおれよりもヤバいであろう状況にいる人。……これ、深夜仕事における「街のあかり」なんですよ。おれだけじゃない、ひとりじゃない、もう孤独じゃない。

だからぼくも、ときどきペンライトを振り回すように、深夜の時間帯に「ここにいるよー」をつぶやいています。それが遠いどこかの誰かにとっての「あかり」になったらいいな、と思いつつ。