文章の書き方と考え方、その一提案。

読書感想文の書き方について、お話しさせていただいた。

ほぼ日のなかでもひときわ大好きなコンテンツ、「勉強の夏、ゲームの夏」に呼んでいただいての話だ。毎年「意外と高学歴な人々」が講師として招かれるこの企画(たとえば去年は瀧本哲史さんなどが登場されている)に、意外と低学歴な自分が出てもいいのだろうかと内心不安に思いながら、ぼくなりの書き方や考え方について、おしゃべりさせていただいた。

もともとぼくは「ことばの正しい文章」や「読みやすい文章」であれば、練習次第で誰にでも書けるようになるし、それでライターとして最低限の仕事を果たせるようになると思っている。むずかしいのは、その先にある「おもしろい文章」を書く力であって、もしかするとそこには才能めいたものが必要になるのかもしれない。これが才能の問題なのか、技術や態度の問題なのか、ぼく自身まだ答えが出ていないところだ。

今回お話しさせていただいたこと、そしてこれから書くことは、たぶん「正しい文章」と「おもしろい文章」の中間あたりに位置するだろう文章の書き方、その考え方の一提案だと思っていただけるとありがたい。


【文章の書き方と考え方、その一提案】

なにかの本を読む。あるいは映画を観る。音楽を聴く。取材をする。誰かとおしゃべりをする。そのときあなたは、なにかしらの「こころの揺れ」を感じるだろう。感動したとか、感心したとか、興奮したとか、怒りが込み上げてきたとか、悲しくなったとか、大笑いしたとか、プラスやマイナスの揺れを、なにか感じただろう。

でも、それを「おもしろかった」とか「感動した」とかのことばで整理しているうちは、まったく対象に近づけない。自分のこころにも、近づけない。汎用性の高い安易なことばで片づけず、もう一歩深いところまで、こころの階段を降りていこう。

暗い階段を降りていくとき、次のことばをランプ代わりに掲げよう。


「この感じ」は、なにに似ているだろう?


本を読んだときの「この感じ」は、初体験のようで初体験ではない。幼いころから昨日までの記憶を丹念にたどっていけば、どこかでなにか似たような「感じ」を経験しているはずだ。だからこそあなたはいま、こころが動いているのだ。

もしかするとそれは「予防接種を打つ前の、列に並んでいるときのドキドキ」に似ているのかもしれない。もしかするとそれは「夕方の空が赤らみ、少しずつ暗くなっていくときのさみしさ」に似ているのかもしれない。もしかするとそれは「ベッドに入ったのに、ちっとも眠れないときのおそろしさ」に似ているのかもしれない。日常のなかにある、些細な「感じ」でかまわない。自分のこころの揺れと、過去の記憶とを照らし合わせていこう。

そして仮に、それが「夕方の空が赤らみ、少しずつ暗くなっていくときのさみしさ」に似ているのだとする。それを発見できたのだとする。だったら次は、こう考えるのだ。


ここに名前をつけるとしたら、どんなことばになるだろう?


つまり、本を読んだときの「この感じ」と、いま見つけた「夕方のさみしさ」とに共通の名前をつけるとしたら、どんなことばになるのか。それをじっくり考えてみるのだ。

……もしもその両者の共通項に「卒業」という名前をつけたとしたら、それがあなただけが見つけた、その作品のテーマだ。作者の思いがどうであろうと、ほかの人がどう読もうと、あなたにとってこの小説は「卒業」をテーマとした作品なのだ。あとはもう、そのテーマを念頭に読み返し、感想文なりなんなりを書いていけばいい。

 * * *

ここで大切なのは、作品(対象)を頭でっかちに鑑賞・批評するのではなく、思いっきり「じぶん」に引き寄せて考えることだ。そうでなければ「わたしにしか言えないこと」は書けないし、「わたしにしか言えないこと」が含まれない文章はおもしろくないし、本質的な価値がない。

これを唯一絶対の書き方・読み方とするつもりはさらさらないけど、ぼくはいまでもいろんな種類の原稿を(無意識ながら)こんな順番で考え、書いていると思う。


ちなみに、このあたりのことを言語化できるようになったのは、明らかに会社をつくってからのこと。文章を書くにあたっての、技術ではない考え方や態度をどうにか伝えていこうと試行錯誤するなかで少しずつ言語化できてきたものです。自分ひとりのフリーランスだったら、ぜったいにやってないし、できてないと思います。

鬼にカネボウ。
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古賀史健

この世をもっと素敵にする

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