見出し画像

会話の水を流す板。

立て板に水、という言いまわしがある。

立てた板に水を流すように、という意味なのだろう。よどみなく、べらべらと、こちらを無視するかのごとく喋りまくる様子をさして、そう言う。やや意地の悪い書きぶりになっているのは、立て板に水で語られる話がめったにおもしろくならないからで、それというのもここにはコミュニケーションが存在しておらず、頭のなかにあるペーパーを読み上げるようにして一方的に語られることばだからだ。

なのでインタビュー取材の現場において、相手の方が「立て板に水」状態になったときは要注意で、一見するとものすごく盛り上がっているように見えるし語られる情報の量も多いのだけれども、それは「いつもの話」をしているに過ぎず、立て板に流れる水を原稿にしたところで「どこかで読んだ話」にしかならない。

そして「立て板に水」の対義語には、「横板に雨だれ」という言いまわしがある。横にした板に雨が落ちるように、という意味なのだろう。ことばに詰まりながら喋る人をさして、そう言う。

話の腰を折ってはいけないし、「横板に雨だれ」こそが最高、と言うつもりもない。もしかしたらそこでことばに詰まっているのは、相手が緊張していたり、こちらを警戒したりしている証拠なのかもしれない。

ただ、経験的に言えるのは「横板に雨だれ」だった人が、なにかのきっかけで「立て板に水」へと変化する、寝かせた板が直立するまでの時間がいちばんおもしろい、ということだ。その場合の「立て板に水」は、いつもの話ではなく「いま思い出した話」だったり、「だれにも言ってこなかった話」であることが多い。


という話をしているのは、ChatGPTを触っていて「立て板に水だなー」と思ったからである。堂々と、よどみなく、かなり自己完結した「答え」だけを提示する ChatGPTのありようは、かなり「立て板に水」的だ。質問すればちゃんと答えてくれるものの、質問がうまくないと、まずい取材のお手本のようなやりとりになりやすい。

立て板に水でも ChatGPTでもないおしゃべり、したいよねー。