見出し画像

おどろく準備はできていた。

それにしても忘れすぎだろ、と思っていた。

人間は、忘れる生きものである。いや、猫や犬や鳥やウサギだって、大抵のことは忘れる。みんな忘れて生きている。自分に起こったなにもかもをぜんぶ記憶するなんてことがあったとすれば、ほどなく脳はパンクする。忘れるからこそ、生きていける。いいことも、いやなことも。

それにしても、とぼくは思うのだ。

職業柄ぼくは、これまでたくさんの方々にインタビューしてきた。そしてたくさんの方々と打ち合わせをしたり、プライベートの場で会ったり、一緒にお酒を飲んだりしてきた。尊敬する方、すごいなあと思う方、いろんな方々とことばを交わしてきた。

それにしては、幸運にも与えられた機会の数に比べれば、「あの人の忘れられないひと言」みたいなものが、極端に少ない気がする。何気ない雑談のなかであの人がふと漏らしたひと言、ふと見せた優しさ、みたいなものの記憶が。どうしておれはこんなに忘れちゃうんだろう、きっとたくさんの金言を耳にしているはずなのに、と情けなく思う。

もちろん、憶えていることばもそれなりにはある。居合わせたほかの人は忘れているっぽいけれど、自分だけははっきりと憶えていることば。さて、このへんの記憶のさじ加減はいったいどうなっているのだろう。記憶力の問題なのか、感受性の問題なのか、それとも別のところに問題があるのか。


最近になって、こんなふうに思うようになった。

誰かの口から語られた「忘れられないひと言」とは、「もともと自分のなかにあったことば」なのではないかと。

たとえば、誰かが「人間って、考える葦だよね」と言ったとする。そんなことを考えたこともなかった自分は、「すげー!」「なんて真理だ!」とおどろく。忘れられないひと言として、記憶の石に刻む。しかし、そこで心底おどろいているわたしは、すでに人間を考える葦だと思っていたのだ。まだうまくことばにできず、もやもやのなかにいたけれど、そのことばと出合う瞬間を、待っていたのだ。だからこそわたしは、心の底からおどろいているのだ。ついに来た出合いに、感動しているのだ。

もしもそうだとしたら、相手のことばを聞き逃し、記憶にとどめておけないのは記憶力の問題でも感受性の問題でもない。おどろく準備ができていないだけだ。そしておどろく準備とは、自分ひとりで考える、答えの出しようがないもどかしい時間だ。

なにを忘れ、なにを憶えておくかについて、ぼくたちに選択権はない。なんというかそれはもう、その人の「生きかた」みたいなものによるとしか言えないんじゃないかと思うのだ。