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ひとはなぜイライラするのか。

きのう、タクシーがなかなかつかまらず、イライラしていた。

人は、おれは、なぜかタクシーについて「それがすぐにつかまるもの」として「タクシーで行けば20分だ」などと計算する。取らぬたぬきを、皮算用する。けれども手を挙げてすぐにタクシーがつかまることは、ほとんどない。まったく学習能力のないバカボンだけど、たぶんこれからもぼくは「タクシーで行けば何分」と皮算用し、イライラしながら道にたたずむのだろう。

しかし、考えてみるとこのイライラは不思議なものである。

たとえば駅のホームで電車を5分待っているとき、ぼくらはイライラしない。スマホを眺めたり、音楽を聴いたり、物思いにふけったり、本を読んだりしながら、むしろ心穏やかに待つ。ところがタクシーのつかまらない5分間は、これ以上ないほどイライラする。なぜか。

「可能性」である。

たぶん以前にも書いた話なのだけど、大事な話なのでもう一度書こう。福岡の片田舎にある公立中学校に通っていたころ、ぼくはバレンタインデーがほんとに嫌だった。チョコレートをもらえないのも嫌なのだけど、それ以上に嫌なのが「あの子からもらえるかも」とか「ひょっとしたら下駄箱のところで待ってるかも」「自転車置き場で待ってるのかも」などと、いらぬ期待をしながらドキドキしている自分が、嫌で嫌でたまらなかった。

ところが、男子校の高校に進むとバレンタインデーのストレスが皆無になる。あれほど嫌だったバレンタインデーが、なんらドキドキしない普通の日になる。だってそうだろう、なにをどう考えたって、チョコをもらえる可能性なんてゼロなのだ。

つまり中学時代のぼくは「もらえるかもしれない」という可能性があったからこそドキドキし、落胆し、恨み、憤り、悶々とした2月14日を過ごしていたのだ。あの喜怒哀楽はすべて「可能性」に依拠した感情だったのだ。


そう考えると、つかまらないタクシーにイライラする理由もよくわかる。あのイライラは「すぐに乗れるかもしれない」「あの角から急に『空車』マークをびかびかに輝かせたタクシーが現れるかもしれない」といった可能性があるからこそのイライラであり、時刻表どおりに運行する電車は「すぐに乗れる可能性」が皆無だからこそ、イライラしないのだ。

イライラとは、裏切られ続ける期待であり、たえまなく損なわれる可能性のことである。


そんなことを考えながら、きのうミーティングに遅刻したのでした。