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人はみな、悩みごとを抱えて生きている。

朝から病院に行った。

具合が悪いわけではなく、いわば定期検診のようなもの。前回におこなった血液検査の結果が示され「全項目満点。パーフェクトです」とほめられた。むかしは少しくらい悪い数値を示されたほうが「そうだよなあ。最近無理してるもんなあ」なんて、よくわからない優越感に浸れていたものの、最近はすっかりその気持ちもなくなっている。とにかく無事に。心配ごとをひとつでも減らして。それが近年のモットーである。

人はみな、なんらかの悩みごとを抱えて生きている。

そりゃあ、年間何十億と稼ぎ、「そんだけお金があればなんの悩みもないだろう」と思いたくなる人だって世のなかにはいる。

しかしながら、「悩みごと」ということばを「考えごと」と「心配ごと」のふたつに分解したらどうだろうか。そうすれば年間何十億円を稼ぐCEOだって、ぼくなんかの何倍もおおきな「考えごと」を抱えていたり、「心配ごと」で頭がいっぱいだったりするはずだ。これはお金にかぎった話ではなく、だれもが羨むような美男美女でも、オリンピックの金メダリストでも、エベレストを登頂した登山家でも一緒である。真剣に生きているほど、「考えごと」や「心配ごと」は増えていく。その重さやおおきさを増していく。感覚的にそれは「悩みごと」であるだろう。

ただし「心配ごと」の多くは、心配したところでどうなるものでもなかったりする。いかにも深刻な顔して腕組みしても、結果として起こる事象に変化はなかったりする。

ならば「心配ごと」の荷物を降ろして、せめて「考えごと」だけに集中したい。とくに自分が集中するべき「考えごと」が明らかなときには、なおさらそうだ。


たしかに「悩みごと」はある。しかしそれは「心配ごと」ではなく、おおきな「考えごと」である。そいつとがっぷり四つに、組み合っている。

もしも自分がそういう状況にいるとしたら、それはとても幸せなことだ。

血液検査の結果表を見て、そんなことを思った。