DSC_0627のコピー

どんな人を、かっこいいと思うのか。

自信がなかったんだろうな、と思う。

きのうさらっと、自分のこれまでについて「飲み会のような場で若い人との接点を持つことを、積極的にはしてこなかった」と書いた。それはなぜだろうとずっと考えていてたどり着いた答えが、自信がなかったんだろうな、である。

たとえば20代の人からすればぼくなんて、干支がひとまわり以上、下手をすればふたまわりも離れた大人である。同業者だったりすれば、その道の先輩でもある。気を遣ってもくれるし、一定の敬意を払いつつ、おいしい酒でも飲みながらちやほやしてくれる。

しかし水商売の不滅さを見ればわかるように、お酒とちやほやの組み合わせほど、人をふにゃふにゃに堕落させてしまうものもない。自分をちやほやしてくれる場所に身を置いていたら、そりゃ気持ちいいだろう。ほくほくだろう。でもおれはそこにいたら、絶対ダメ人間になる。なりたくなかった大人になる。そういう自制心を働かせ、ぼくは自分をちやほやしてくれる場所よりも、ぺこぺこさせてくれる場所を好んで生きるようになった。ちやほやに揺らがないだけの自信が、からきしなかったのだ。


ぼくはつねづね、人間ってのは「誰をかっこいいと思うか」によって、その道が決まってくるものだと思っている。

エルビス・プレスリーをかっこいいと思う人。ジョン・レノンをかっこいいと思う人。ミック・ジャガーをかっこいいと思う人。ミュージシャンならずとも、それぞれの道は(その理解度や憧憬具合が深ければ深いほど)微妙に違ってくるだろう。

もちろんぼくにも「かっこいい」と思う人はそれぞれの時代にいて、いまもいる。そしてぼくの考えるかっこいい人は、ちやほやに負けない。どんなにちやほやされても、自分を見失わない。だからこそ、そうされるであろうことがわかっている場所にも、ひょいと飛び込んでいくことができる。いつも身軽で、かろやかである。


なんてことをつらつら考えながら、ぼくも自制の鈍重さを振り払って、若い人たちとの接点を積極的に設けていかなきゃなあ、と思っている。お酒の絡むような、儀礼としてのちやほやが避けられない場を。それは「若い人たちから学びたい」という、いかにも物わかりのよさげなおじさんとしての発想ではなく、まだうまくことばにできないのだけど「自分はどういう人をかっこいいと思っていたか(またはかっこわるいと思っていたか)」の、記憶を辿る場なのだと思っているのだ。