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偉そうな人はなぜ偉そうなのか。

無意識に出てくることばは、意外な真理を含んでいたりする。

最近それを強く感じるのは、「偉そう」ということばである。だれかの態度を見て「けっ、偉そうにしやがって」と思う。ソーシャルメディア上でのふるまいを見て「なんだ、偉そうに」と思う。じつは本日もある人から「なんであの人はあんなに偉そうにしてるの?」と訊かれた。うん、その気持ちはよくわかる。偉そうだ。

偉そう、という直感の背後には「偉くないのに」がある。もしもほんとうに偉い人(たとえば能力にすぐれた人)が不遜な態度をとっていたとしても、それは「偉そう」という感想にはならず、「怖い」あたりの感想になるはずだ。ぼくは現役時代のイチローさんのインタビューを見聞きするたび、怖いなあ、と思っていた。「なにを偉そうに言ってやがんだ」なんて感想を抱いたことは、一度としてなかった。われわれが「偉そう」だと思うその人は、等しく「偉くない」のである。

さらに転がして考えるとその人は、偉くないから偉そうにしている、とも言える。まっとうな実力を持ち、等身大の自信を持っている人であれば、自分を自分の背丈以上に見せる必要はない。心になんらかの不安を抱えているからこそ、偉そうなふるまいに出るのだ。

なのでじつを言うと、「なんであの人はあんなに偉そうにしてるの?」という問いは、「偉くないから」という身も蓋もない答えひとつで話が終わってしまったりする。

それで考えを終わらせるのはあんまりにもあんまりなので、偉そうな態度の反対にある「謙虚さ」について考える。

これまでの人生のなかで、ぼくはさまざまな分野の「すごい人」に会ってきた。そしてその多くは、謙虚さを持ち合わせた方々だった。謙虚と言うと、腰が低いとか、物腰が柔らかいとか、威張ったところがまるでないとか、それこそ偉そうにしないとか、いろんなイメージがあると思う。

けれど、ぼくの考える謙虚な人の共通項は、「相手から学ぼうとする姿勢」の有無だ。ぼくみたいな若造の話にもちゃんと耳を傾けて、なにかを学ぼうとする。学ぶ材料を見つけようとする。そうして自分を変化させ、成長させようとしている。それが謙虚さの正体だとぼくは思っている。

で、話は偉そうな人に戻る。

偉そうにふるまう人の多くは、あらかじめ答えを(あるいは自分を)決めてしまっている。そうでなければ断定的に物事を語ることができず、すなわち偉そうにふるまうことができないからだ。偉そうにしている時点でもう、自分を変える気を消失している。だとすればその人は、ずっと偉そうなままだろう。つまり「偉くない」ままだろう。


……といった諸々を「なんであの人はあんなに偉そうにしてるの?」と訊かれたときにパパッと答えられればよかったなあ、と思ったのでした。