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スマホが携帯しているもの。

幼稚園のころ、半年ほど入院したことがある。

手術をしたわけでもなく、これといった自覚症状もなく——骨髄採取(移植も?)をして、それは絶叫するほど痛かったけれど——絵本を読んだり、テレビを見たり、看護師さんたちにあそんでもらったり、割合のんきに暮らしていた記憶がある。退院後、半年ぶりに幼稚園に行くと、担任の先生が号泣しながら「よかったねえ、よかったねえ」と抱きしめてくれた。なにがよかったのかわからないままぼくは、自分がけっこうな大病を患っていたのだと直感した。

あの入院生活が大人になってからのものだったら、つまり、手術も自覚症状もわかりやすい治療行為もない入院生活が半年続いていたなら、ぼくはずいぶん退屈しただろうなあ、と思う。スマホやネット環境がなかったなら、なおさらだ。


きょうの東京は静かだ。実家に帰省している人は例年より少ないだろうに、ちゃんと静かだ。猛暑でもあるし、自宅でじっとしている人が多いのだろう。この夏はフジロックなどの音楽フェスもなく、ぼく自身今年はまだコンサート全般に足を運んでいない。「できないこと」や「避けていること」を挙げていけば、いくらでも不自由を実感することができる。

けれども過去に何度か経験してきた入院生活に比べると、やれることだらけだ。入院って、治療がつらかったり病院の雰囲気や食事がつらかったりも当然あるんだけれども、やっぱり外界との接点が失われることがいちばんこたえるんじゃないのかな。それでこころの元気をなくしちゃう人、多いんじゃないかと思う。

——みたいなことを考えていると、やっぱりスマホってのは偉大な発明品だなあと思うのだ。電話を携帯しているのではなく、コンピュータを携帯しているのでもなく、「社会」を携帯しているんだもん。