見出し画像

ようやくわかったかもしれないこと。

「友がみな われよりえらく 見ゆる日よ 花を買ひ来て 妻としたしむ」

石川啄木の、有名な歌だ。書きながらいま、高校時代の現国教師がやたら啄木のことを好きだったのを思い出した。啄木のどんなところを激賞していたのかは、憶えていない。とんだ暴力教師だったけれど、おかげで彼の授業はほとんどボイコットして名画座にしけ込んでいたのだけれど、いまになると少し、彼の語る石川啄木を聞いてみたい気もする。

という思い出話をしたかったわけではまるでなく、冒頭の歌をときどき思い出す。さしずめおれは「犬としたしむ」だなあ、なんて自分を笑ってみたりする。乾いた声がする。


歌と写真は似ている。

すぐれた歌は写真のようであり、すぐれた写真は歌のようであると、ぼくは思う。ファインダーで風景を切り、シャッターで時間を切る。切りとられた刹那は「二度と再現できないもの」として一枚の写真になる。すぐれた歌とはたぶん、そのようにして心の時間と風景を切りとったものなんだろうと、ぼくは想像する。


いまごろになって幡野広志さんの写真展『優しい写真』を思い出している。

この写真展には都合3回、足を運んだ。ふつうに「優くん、かわいいな」とか「この写真、好きだな」とか思いながら観ているうちに、自分の感想が、なにかぜんぜん足りていないことに気がついた。いったいぼくは幡野さんの写真の、なにがそんなに好きなんだろう。どこをそんなにいいと思っているんだろう。


音符なのだと思った。

幡野さんの写真には、それぞれなにかの音符がついている。ピアノの鍵盤をひとつ、ポーンと押したような、音がそこに響いている。そしてたくさん並んだ写真を一枚ずつ追っていくと、その音符は美しい連なりとなり、やがてメロディが聞こえてくる。ああ、そうか。幡野さんが note にたくさんの写真をわーっと並べたときの美しさと高揚感は、音符の連なりによる楽曲だったのか。切りとられた刹那がパタパタと枚を重ね、走馬燈のように駆けめぐっていくあの快感は、歌にメロディがつけられたからだったのか——。


いま、幡野さんの新刊をお手伝いしている。

テープ起こしを読み返しながら、この本に流れるメロディを思い浮かべている。いままでの自分がまったく弾いたことのない旋律が聞こえている。

考えてみればむかしのおれって、ほんっとテキトーに弾いてたよなあ、なんて苦笑いも、したくなる。