正論を口にするときの危うさ。

こういうとき、おれは調子が悪いんじゃないか。

きょうの note はなにを書こうかな、とキーボードに置いた指を眺めていたとき、ふとそう思った。書くことが浮かばないなあ、と中空を見上げてぼくは、「最近の○○な風潮、どうも間違ってると思うんだよね」的な話を書こうかな、と思いついた。○○についてだったらいくらでも書けるし、ちゃんと書けば、まじめな提言にもなりそうだ。よーし、○○について書こう。

そうして指を動かしはじめたときにふと、これっておれの不調をあらわしてるんじゃないか、と気づいたのだ。

どういうことか。

自分になんの関係もないはずの他人に、自分にこれといった実害をもたらしているわけでもない他人のやってることに、「それはいかがなものか」とケチをつける。そのケチの論拠として、もっともらしい倫理を持ち出したり、道徳を振りかざしたり、「それによって困っている人」や「傷ついてる人」を捜してきたりして、正規軍の旗を立てる。いかにもそれが正論であるかのように。

けれども、ほんとの根っこにあるのは個人的な「なんかムカつく」であり、なんかムカつく最大の理由はきっと「いまのおれの調子の悪さ」なのだ。ほんとのほんとに自分が絶好調であったなら、きっとムカつく対象(大抵それはちっぽけな存在である)も視界に入らないだろうし、仮に入ってしまったとしても、ししゃもの骨のようにそのまま咀嚼してしまうだろう。


正論の9割は「理屈で固められたケチ」なのだ。

少なくとも自分が正論めいたことばでなにかを否定したくなったときには、それくらい用心深くなったほうがいいのだろう。


ま、ししゃもと同じく酒の肴としての「ケチ」はおいしいものでもあるし、要はブログやSNSが「酒の席」と同じ空間なのかどうかが問題なんでしょうけどね。

出る釘は浮かれる。
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古賀史健

古賀史健(2018)

古賀史健の note、2018年分です。
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コメント3件

自分の嫌いな作家・太宰治の言葉を思い出しました。「正しすぎることは暴力だ」でしたかね。太宰治ファンの方は合っているか教えてください。少なくとも私の母校の助教授の方が言った太宰の言葉なので、出鱈目じゃないはず。
「正論」には憧れはある。ただ、「正論」でしか話せない人にはなりたくない。そんな人は例えば某刑事ドラマの○下右京のような虚構だけで十分だ。虚構だからこそ、響くこともあると思うんです。
私も太宰がキライなんですが正し過ぎることは暴力だには驚きました。私はよく『正論ふりかざすことはいちばん安易な暴力だ』とよく言っていたからです。当たっているか否かは解りませんが少なくとも共感します。いかにも…な正論を口にするのも書くのも簡単です。どこか一抹の狂いがあったとしても世間一辺通りで通用(顔パス)してしまう類いのNHK的(不適切な比喩ならすみません) 正論なら誰もが内心針の先ほどの軋轢を感じていたとしてもどう反論していいのか解らない、だからひれ伏してしまう…正論と呼ばれる形のものが真に正論なのかは誰にも解らないし現代でまかり通っている正論には強きを讃え弱きを嘲笑あるいは集団で叩く傾向もあると感じています太宰はスキではないけれどその言葉には賛成です。
「正しすぎることは暴力だ」っておもしろい言葉ですね。
わたしは常々「正論はこわい」と思ってます。
正論をかざすそのひと自身もこわいです。
実際、その時、たいていこわい顔をしてる。

そう思っている自分自身が、ある時何かの力を受けて正論を繰り出しそうになる時、「おまえ、偉そうに、いったい何様なんじゃ?」と自分にツッコミを入れることにしてます。
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