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過去形としての決心。

こんなふうに思うことがあるなんて、考えてもいなかった。

毎日ブログを書くことはラクでいいなあ、と最近思う。もちろん「面倒くさいなあ」の日も多いし、書くことがぜんぜん思いつかない日もある。トレードオフだとは思わないけれども、プラスもあればマイナスもあるのは間違いない。それでもたとえば週一の更新だとか、週二の更新だとか、あるいは月一の更新だとかでやっているよりは、毎日のほうがずっとラクだと思っている。

というのもこれ、自分の気分として「途中のもの」を書けるのだ。

まだうまくまとめきれていない、もう少し考え続ければうまくことばにできそうなもの。そういうことも「毎日のブログ」であれば臆面なく出していくことができる。「毎日書いてるんだから、これで許してね」という甘えではなく、なんとなくの気分として、「答えが出ていないおれ」に素直であれる。もしもこれが月一の連載だったりしたら、もう少し「答え」や「結論」を出そうとするだろうし、そうなればぜんぜん素直じゃなくなってしまうだろう。


という前提で、途中のこととして書くと、いま「もしかしたらすっげー大発見をしちゃったかも」と思っていることがある。

先週末、田中泰延さんが書いた『ボクたちはみんな大人になれなかった』の書評を何度も読み返すうち、ひとつ気がついたのだ。書評のなかで泰延さんは、何度も何度も「自分の運命が狂った日」について書いている。それは燃え殻さんとの出会いであり、糸井重里さんとの邂逅だ。誰もが羨む大手広告代理店に勤務していた彼は、その10ヵ月後に会社を辞め、ハローワーク通いの青年失業家となった。理由はよくわからない。運命が狂ったとしか言いようがないだろう。

自分のこととして考えた。

もしかしたらぼくも、あそこで運命が狂っちゃったんじゃないか。辞めるべき会社がないからそれに気づいていないだけで、どこかすでに歯車が狂っちゃったんじゃないか。いや、そうとしか思えないこと、意外とたくさんあるぞ。

ということで先週末から、「おれは人生が変わったのだ」という前提のもと、ごはんを食べて、仕事をして、犬と散歩したり、排便を我慢したりしている。「変わりたい」でもなく、「変えよう」でもない。歴然とした事実として、「すでに変わってしまったのだ」と思って生きている。

その前提に立って眺めると、風景が少し違って見えるからおもしろい。


ほんとうの変化とは、過去形のなかにあるのかもしれない。