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子どもたちへのみくびりを払拭して。

思うところあって最近、むかしのディズニー映画を観ている。

むかしのディズニー映画と言っても『アラジン』とか『美女と野獣』とかのレベルではなく、たとえば戦前(1937年)の『白雪姫』までさかのぼって、観ている。なるほど、むかしのディズニー映画ってのはジブリ映画みたいに「テレビでたまたま観る」がないものなので、みずから積極的に観に行かないと永遠に触れないまま終わりかねないのだ。はじめての『白雪姫』の物語に、それを知った。

ぼくのような男でも知っている事実として『白雪姫』は、ディズニーが初の劇場用アニメーションとしてつくった作品だ。そしてこれも有名な話として全編が(毎秒24コマの絵が動く)フルアニメーションでつくられている。そのフルアニメーションがもたらす、ぬるぬるした動きのすばらしさは想像以上のクオリティで、観ていて1秒たりとも飽きることがなかった。

ただし、フルアニメーションを抜きにして考えても、自分が知っている「アニメ」とは決定的に違う思想がそこに流れているように感じられた。いったいなんだろう。

じつを言うとこの『白雪姫』、ストーリー自体は笑っちゃうほどに単純明快だ。現在の目で見れば、あるいは実写映画の目で見れば、明らかに「そこを端折っちゃダメだろ」「このへんにもうひとつ山場がいるだろ」「さすがにここは丁寧な説明が必要だろ」とツッコミを入れたくなるストーリーテリングの穴が、ぼこぼこに開いている。

しかも『白雪姫』は、ディズニーにとってはじめての劇場用アニメーションだ。当然ながらディズニーは、お客さんを「びっくりさせたい」と思ってこの狂気にも似た映像制作に臨んだのだと想像する。手を抜いた箇所など、それこそ1秒もない。

というのもディズニーが「びっくりさせたい」と思った相手は、子どもたちなのだ。そして子どもたちの「びっくり」に必要なのは決してどんでん返しでも複線の回収でも衝撃の新事実でもなく、つまりストーリー上の創意工夫ではなく、「キャラクター」であり、その「動き」であり、「音楽」なのだと結論したのではないか。そんなふうに、ぼくは思った。

たとえばきのう観た『ピーターパン』なんて、めちゃくちゃ唐突に話がはじまる。「えっ? こんなところからはじめて子どもたちは理解できるの?」とこちらが心配になるくらい突然、ある種の「有名人」としてピーターパンが現れる。

しかしその心配は子どもたちへのみくびりに過ぎず、なんといっても子どもたちは絵本を開いたその瞬間に、迷うことなく絵本の世界に飛び込んでいける想像の住人なのだ。現実との接合点や、面倒くさい状況説明など、彼らにはまったく不要なのである。


いやー、おもしろいです。むかしのディズニー。この連休、カレンダーどおりに休むこともむずかしそうなんですが、もっともっと観ていきたいと思っています。