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自分のなにを、大事にするのか。

もっと自分を大事にする。よく聞くことばだ。

自分のことをいたわってあげるだとか、自分で自分にごほうびをあげたり、十分な休息を用意したりとか。そういうニュアンスで語られることの多いことばだ。うん、自分を大事にしてあげよう。自分を粗末にしないでおこう。いまのぼくはむかしに較べて、ずっとたくさんの休みをとり、無理のないスケジュールで仕事にあたっている。いいことだ、と自分でも思う。

けれども最近、自分を大事にするその目的語について考える。つまり、自分の「なにを」大事にするのか、という話だ。

これが自分の「身体を」大事にするとか、自分の「心の平穏を」大事にするとかであれば、いまのままでいい。むしろ、もっと休んでもっとあそんでもいいくらいだ。

ただ、自分の「可能性を」大事にする、だったらどうだろう。

まわりの目にどう映っているかはわからないけれど、ぼくにはまだ「できること」がたくさんあると、自分では思っている。わかりやすいところで言うなら、いまから英語をマスターすることだって可能だろうし、いまから楽器を、たとえばギターやドラムをマスターすることだってできるだろう。フルマラソンを完走することも、世界一周の旅に出ることもできる。

仕事のことについても、もうずいぶんと自分のホームグラウンドが固まってきたような気はするものの、まだここからあたらしい土地を開拓していくことは可能だ。そしてそれをやらないことは、自分(の可能性)を大事にしていない、ということなのかもしれない。

自分に厳しくあることは、まわりまわって自分にやさしくあることなのだ。自分を、自分の持っているはずの可能性を大事にしてあげようとするからこそ、自分の尻を叩き、自分を怠けさせない。休むことと怠けることは違う。そして自分の可能性を尊重しないことは、自分を粗末に扱うことそのものなのである。

土日はインプットの機会やそれについて考える時間が多く、月曜日のブログはときどき、熱いものになる。

自分を大事にしたいなー。