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所有のおわりと、所有のはじまり。

高校生のころ、金に困ると日雇いのバイトに出ていた。

朝の5時だか6時だかに博多港近くの広場に出かける。数十人の日雇い労働者たちがたむろしている。やがて業者のおじさんたちが何台ものワゴン車で現れ「じゃあアンタはこっち」「そこの兄ちゃんはうちの車」などと差配する。ワゴン車に乗り込む際、新品の軍手を渡される。そのまま工事現場、建設現場、冷凍倉庫などに連れて行かれ、夕方まで汗水をたらす。

そして18歳以上の人間だけを雇い、こちらも18歳と名乗って誓約書に拇印を押したはずなのに、「はい、高校生」と6000円を渡される。おじさんたちはたしか、7000円をもらっていた。


業者のおじさんは、どう見ても半分ヤクザだった。

一度だけ、現場から事務所まで戻るとき、ヤクザなおじさんのでっかい黒塗りベンツに同乗させてもらったことがある。道を急ぐおじさんは「どかんか、おらぁ」などと言いつつ、何度もクラクションを鳴らす。ルームミラーでベンツと運転手の風貌を確認したのだろう、善良な市民はそそくさと道を譲る。陳腐なたとえをするならば、映画『十戒』の海が割れるシーンのように車の列が割れ、道ができていく。後部座席から眺めるぼくは、バカボンなことにそれを「かっこいい」と思った。いまでもときどき、あのときの光景を思い出す。



でっかい高級外国車でも、ごっつい腕時計でも、あるいは白亜の大豪邸でも。多くの場合は「それ」がほしいというより、「それを持ってるおれ」へのリアクションがほしくて、手にするものだったんでしょうね。そしていまの時代、それらを持っていても昔ほどわかりやすいリアクションが返ってこず、場合によってはネガティブなリアクションさえ頻発し、「じゃあ別にいいや」になっているのではないでしょうか。

そう考えると「所有のおわり」的な議論はまだまだ過渡期の話で、これからほんとうの「所有のはじまり」が訪れるのかもしれません。つまり、周囲のリアクションから完全に切り離された「好きだから、ほしい」の時代が。

あ、おたくの人たちはそれを先取りしてるのかな。