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傘がおちょこになる瞬間

このひとのインタビューは、いつ読んでも確実におもしろい。そう断言できるひとのひとりに、黒澤明さんがいます。いま本として残っているインタビューは、やはり晩年のものが多く、そのせいもあってかぜんぜん怖いひとじゃない。気むずかしい感じもなく、むしろ「訪ねてくれてありがとう」なトーンで話が進む。こういうインタビュー(声)が本のかたちで残っていることは、ほんとうにありがたいよなあ、と思います。

それで黒澤さんはしばしば、ほとんど無意識のように、ご自分の映画について「写真」という言い回しを使われるんですね。「ぼくの写真はねえ」みたいな感じで。活動写真の名残なのか、それとも映画とは1秒24コマの写真の集まりなんだというお考えなのか、フィルムに対応する語としての写真なのか、そのあたりは定かではありませんが、この「ぼくの写真はねえ」の感じ、とても好きなんです。

とはいえ黒澤さんも、意識的に「映画」の二文字を使うことがあります。およそこんな感じです。「いい写真(=映画)ってのはさ、その写真が『映画になる瞬間』ってのがあるんだよね」。ぼくが読んだインタビューでは、そのたとえとして『八月の狂詩曲』のラストシーンを上げておられました。嵐にむかって突き進むおばあちゃんの傘が「おちょこ」になって、シューベルト「野ばら」の合唱が流れ出す、あのシーン。なるほどぉ、『酔いどれ天使』だとあのシーンだろうな、『天国と地獄』だとあそこだよな、『蜘蛛巣状』なんてぜったいあのシーンだよね、なんてことを考えるのも楽しい、発見に満ちた言葉でした。

もともと映画の道を志していた経緯もあり、ぼくは本づくりのいろんな場面で「映画でいえば、こういうことだよな」と考えるようにしています。それでたぶん、本の世界にも、原稿が「本になる瞬間」というものがあるように思っています。10万字の原稿を書けば、それが自動的に本になるわけじゃない。何百、何千、何万文字と進んできた原稿が、どこかの瞬間で「本」として生まれ変わる。それがなんなのか、どこで「本」になるのか、あたりを真剣に考えることが、ぼくらの仕事なんだろうし、永遠の課題なんでしょう。

あえて「本」にしない本、というものがあるのも事実ですし、そういう「読みもの」も大切ですけどね。