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わたしはカメラ、かもしれない。

あのころ iPhone があったなら、ぜんぜん違っただろうな。

仕事やプライベートのいろんな場面でそう思うことは多いのだけど、とくに違っただろうと思うのは、サッカー少年としての自分だ。きっとどんな競技であってもそうなのだろう。紅顔のサッカー少年だったぼくは当時、何度か深刻なスランプに見舞われた。いつもどおりに蹴っているつもりなのに、いつもどおりにボールが飛ばない。ボールの芯をとらえることがかなわず、たとえばコーナーキックを蹴るときでさえ、ゴール手前までしか届かない。なにが悪いのか、あれこれフォームの修正を図ろうとするのだけど、やればやるほど「いつもどおり」から離れ、場合によっては足首や股関節を痛めてしまう。……そういうスランプが、何度かあった。

もしもあのとき、iPhone があったなら。ボールを蹴る自分を動画で撮影し、スローモーション再生なんかまでできちゃってたら。もしかしたらぼくは自分の「いつもどおり」じゃないところを即座に見抜き、フォームの修正などの改善策がとれたのかもしれない。さらにまた、スランプからの脱出だけでなく、自分の悪い癖なんかも一発で理解して、もっともっとうまくなれたのかもしれない。

当時の自分がスマホを持っててどれくらい SNS や課金ゲームにハマるかはわからないけれど、少なくとも「サッカーをしている自分の撮影」には、かなりハマったんじゃないかと思う。


で、本題はここから。

スランプに陥ったスポーツ選手がなかなか「いつもどおり」を取り戻せないのは、そこに「カメラ」がないからである。カメラとは写真機のことではなく、「客観」だ。いまの自分がどんな状態であるかを教えてくれる客観の眼が存在しないから、スランプから抜け出せなかったり、成長が止まったり、いろいろと残念なことになってしまう。

これはスランプに限った話ではなく、たとえば特定分野で天才とされる人が成功の秘訣みたいなことを語るときでも、意外とご本人は自身の振る舞いに自覚的でなかったりする。思いっきり主観に生きているがゆえに「とにかく思いっきりバットを振ることですよ」みたいな言葉しか出てこないことは、ほんとに多い。

ここでライターやインタビュアーは「カメラ」として機能する。ひとりではどうしても得られない「客観」を与える。あなたはこんなふうにバットを振っています、と一緒にスローモーションビデオを見たうえで、もう一歩奥にあるバッティング談義に花を咲かせる。もちろん写真機を使うのではなく、心と頭のカメラで。


最近、自分のやってる仕事を(自分のなかで)定義付けする必要性を感じる機会が増えていて、きょうはふと「カメラ」や「スローモーションビデオ」のたとえが浮かんだ。

これからまた考えていこう。

馬の耳に壇蜜。
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古賀史健

ライター。バトンズ代表。著書・共著「嫌われる勇気」「古賀史健がまとめた糸井重里のこと。」「20歳の自分に受けさせたい文章講義」など。週日更新しています。http://www.batons.jp

古賀史健(2018)

古賀史健の note、2018年分です。
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