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なりたい自分、ありたい自分。

若いころの自分に教えてあげられたらなあ、と本気で思う。

ぼくは24歳のとき、フリーランスになった。上京からおよそ半年、右も左もわからないまま、東京に知り合いと呼べるほどの知り合いもいないまま、フリーランスになった。そして、これが(SNSのなかった時代の)ライターの厄介なところなのだけれど、フリーランスのライターに「横のつながり」はほとんどなかった。仕事で付き合うのは編集者やカメラマン、あとはデザイナーばかりで、そういう知人・友人・恩人ばかりが増えていった。尊敬できる編集者、お世話になりまくった編集者もたくさんいたけれど、厳密には職種が違う。「おれもあんなライターになりたい」と思える同業者は、活字の向こうにしかいない。そういう「なりたい先輩」と直接知り合う機会と実力がなかった。

先輩の不在と、そこからくる不格好な我流。

長らくこれは、ぼくのコンプレックスのひとつだった。ライティング・カンパニーを標榜する会社を立ち上げたり、いま「ライターの教科書」めいた本をつくっている背景には、間違いなくそのころの無念さが影響している。

けれどもあるとき気がついた。ほんとうの意味で「なりたい先輩」なんて、いるわけがないのだ。おれはおれでしかないのだし、誰かに「なる」ことはおれを放棄することでもあるのだし、フリーランスであろうとなかろうと、どんな恵まれた環境にいようと自分は、「なりたい先輩」になど、めぐり合えなかったのだ。

一方、「おれもあんなライターでありたい」は、ありえる。

「おれ」の部分はそのままに、プロとして、職業人として、人として、自分もあんなふうでありたい。あんな姿勢で生きていたい。そう思える出会いは、絶対にありえる。しかもその相手は、同業者である必要がない。編集者であれ、カメラマンであれ、デザイナーであれ、取材先の誰かであれ、「自分もあんなふうでありたい」と姿勢にあこがれることは、ありえる。若いころのぼくに欠けていたのは、具体的な「なりたいライター」ではなく、「そうありたい誰か」をさがす気持ちだったのだ。

「なりたい」は自分勝手な野心であり、「ありたい」は純粋な敬意である。


若いころの自分に教えてあげられたらなあ、と本気で思う。


「なりたい」と「ありたい」は違うんだよ、これからきみは目を精いっぱいに見開いて、「自分もあんなふうでありたい」と思える誰かをさがせばいいんだよ。そういう人には、きっと出会えるはずだから、と。