見出し画像

続編を書くということ

すでに公になっている情報なのでここにも書いちゃいますが、いま『嫌われる勇気』の続編に取りかかっています。続編ということはつまり、あの哲人とあの青年のその後を描く一冊です。すでに岸見一郎先生との議論(問答?)も終え、物語に関連する周辺の方々への取材も終え、前作以上の資料や文献をひっくり返す作業もひと段落し、あとはいよいよ書くだけ、という状態で少しずつ筆を進めているところです。

続編と聞いて、「あちゃー」と思われた方は多いですよね。ぼくも続編、あまり好きではありません。もちろん続編をつくれるということ自体、前作が一定程度の支持を受けた証拠でもあり、売れなかったら続編の声さえかからないのですから、よろこばしいことではあるでしょう。

しかし一方で、続編にはどうしても「晩節を汚す」的な印象があり、一作目よりもおもしろい続編、一作目のファンを十分満足させる続編は、そうそうお目にかかれるものではないわけです。しかも映画とは違って、前作と監督を変えての続編、というわけにはいかないものですから、なおさら新鮮味は薄くなります。ヒットしたコンテンツについて、安易に「続編やりましょうよ」と声をかけてくる方は大勢いるものの、つくる側としてはそう安易に引き受けることができない。それが続編というものです。きっと続編というだけで、そこに「安易さ」と「商売っ気」を感じ、敬遠したり小馬鹿にしたりする方も多いでしょう。部数の面からも、一作目より売れる続編はほとんどないと思います。そのへんはもう、最初のハードルとして十分わかっているつもりです。

それではなぜ、リスクしか見当たらないような続編に、わざわざ取り組むことにしたのか。

じつは一作目の『嫌われる勇気』をつくるとき、共著の岸見一郎先生と編集の柿内芳文さんとのあいだで、ふたつの目標を設定していました。ひとつは「世界で読まれる本にする」。もうひとつが「世界で100万部をめざす」。すぐにヒットすることはないかもしれない。でも、たとえ100年かかってもいいから、そこは達成しよう。逆にいうと、100年の歴史に耐えうるような一冊にしよう。当時のぼくらを知っている人たちは覚えているでしょうが、真顔でそんな話をしていました。

そして刊行から1年半が過ぎた現在、まだ最終目標だった英語圏での刊行には至っていないものの、日本で75万部、韓国で40万部、台湾で6万部、最近中国とタイでも刊行が相次ぐなど、当初の目標について、数字の上では達成していることになります。

日本でもアドラーの名が少しずつ知られるようになり、アドラー関連の書籍が毎月何冊も刊行されるようになりました。いまAmazonに「アドラー」と入れて検索すると、びっくりするほどたくさんの関連書が出てきます。それまであまり知られていなかった人物、知られていなかった思想ということもあって、一種のブームとなった感さえあるほどです。

でも、なにが危ないって、ブームほど危なっかしいものはないんですよね。すべてのブームは一過性の流感であって、ブームが過ぎ去ったあと、むしろそれは「恥ずかしいもの」となっていくものなんです。バブル時代のワンレン&ボディコンなんかはわかりやすい例ですし、最近では「オワコン」なんて物騒なことばさえありますし。ブームになる、流行ってしまう、とはそれだけおそろしい反作用がつきまとうものなんです。

それで、一過性のブームになっては困る、なんとかブームではなく、ひとつの選択肢としてでもいいから、定着したものにしていきたい。いや、しなきゃなんない。ということで、続編に臨む決心を固めました。ある意味、「ブームを終わらせるため」とも言えますし、それが一作目以上にむずかしいハードルであることはよくよくわかってます。

それでいま、仕事の中心であるだけではなく、生活の中心もこの続編原稿になり、夢の中にも哲人と青年が現れ、激しい言葉のバトルをくり広げるようになってきました。

ああ、ようやくここに来たんだなあ、という気がしています。