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好きと嫌いで生きていく

4年に1度のオリンピックを見ていると、「どんな種類のスポーツであれ、まじめに見るとおもしろい」という事実に気づかされる。

いや、オリンピックでなくとも、たとえば最近の錦織圭選手の活躍を見守るうちに「テニスってめちゃくちゃおもしろいな」と思っている人は多いのではないかと思う。そこに人生を捧げた人たちによる真剣勝負は、前後の文脈を知らない「にわか」の目で見ても、十分すぎるほどおもしろいのだ。

これはサブカルチャー全般にも同じことがいえて、どんなに低俗とされるカルチャーであっても、まじめに眺め、まじめに語れば、いくらでもおもしろく、奥の深いものになっていく。アニメ、プロレス、ヘヴィメタル、ビデオゲーム、ライトノベル。なんでもそうだ。

一方、伝統的な文化を愛してきた人からすると、これらサブカルチャーは低俗かつ下劣な、恥ずべき子どもだましに映る。そして「プロレスなんて真剣勝負じゃない」「ライトノベルなんて文学じゃない」と否定してまわる。

問題はここだ。

つまり、どうしてプロレスやライトノベルを否定するとき、わざわざ「真剣勝負であるか否か」や「文学であるか否か」なんて大仰な話を持ち出すのか、である。 

たぶん、ここには「好き/嫌い」への不信、があると思う。

物事を「好き」や「嫌い」で判断するのは愚かなことで、「正しい」や「正しくない」によって判断しなければならない、という思い込みだ。ほんとは「嫌い」だから否定しているだけなのに、テキトーな「それが正しくない理由」をでっちあげようとしたとき、「あんなの文学じゃない」みたいな、うすっぺらい話になるのだと思う。

自由な社会とは、個人的な「あれが好き」や「これが嫌い」を大きな声で表明できる社会のことを指す、とぼくは思っている。いま、インターネット上の大勢がどこかから借りてきた「正義」の代弁者になって、そこから外れたひとに向かっていっせいに投石するような流れができつつあるのは、ネットがそれだけ不自由な空間になっているからだと思う。

というわけで。

それがどんな種類のものであれ、「正義」の代弁者であろうとするのは、自分にも他者にも不寛容な、ストレスの多い生き方だと思います。ぼくはアニメも見ないし、ラノベも読まないけど、それはアニメやラノベが低俗だからじゃなくって、単純に好きじゃないからなんですよね。周囲に対して寛容になることは、自分の「好き」や「嫌い」を認めることから始まるんじゃないのかな。