孫は正義なり(まさよしにあらず)

「いとこ」ってなんだろう。

人それぞれだとは思うけど、少なくとも子ども時代のぼくにとって「いとこ」とは、学校の友達とはまったく別の親密さを持つ存在だった。せいぜい年に数回しか会わないのに、互いをまるごと知り合っているかのような気にさせる、ふしぎな存在だった。人として、性格的にみんな大好きだったかというと、たぶんそうではない。けれどもやっぱり、近い関係だった。

あの近さ、親密さの正体を「血のつながり」で説明するのは、どこか無理がある。子細に眺めて考えたら、自分と「いとこ」なんて違うところだらけだ。相貌も、背格好も、趣味やら好きな食べものも、なにもかもが違う。血は争えないなあ、と思える箇所はほとんどない。

そこで3つの仮説を考えた。「いとこ」特有の近さは、たぶんこのへんに理由があるはずだ。


(1)頻度よりも歳月

たしかに「いとこ」は、年に数回しか会わない関係だ。会う頻度は極端に少ない。けれども大抵の「いとこ」は、あなたとわたしのいずれかが、よちよち歩きの赤ん坊だったころからの、長い長い知り合いでもある。いわば究極の幼なじみであり、「あのころのわたし」や「こんなにちいさかったあなた」をたくさん共有しあう関係だ。そりゃあ近くも感じるだろう。


(2)親同士の仲のよさ

「いとこ」の親(おじやおば)は、自分の親にとってのきょうだいだ。というか、この人たちがきょうだいだったからこそ、自分たちにも「いとこ」の属性が付与された。これが学校の友達になると、親同士の関係は「社交」の範囲を超えない。むしろ牽制し合ったりする。自分の親が、どれだけリラックスしているか。それは子どもたちの関係にも大きな影響を与えるだろう。


(3)おばあちゃんの共有

違うところだらけの「いとこ」でも、祖父母の前では、みな等しく「孫」である。親はそれぞれ違うけど、おばあちゃんは同じおばあちゃんをおばあちゃんとして共有している。おばあちゃんの「孫」であるぼくたちは、別の名前でいうと「いとこ」みたいだよ。そんな関係が、学校の友達にはない近さを生み出しているのだろう。ぼくらは誰かの子どもであると同時に、誰かの孫なのだ。「いとこ」とは、孫という階層における、きょうだいなのだ。


個人的には3つめの「孫」説がいちばんしっくりきてるのですが、どうなんでしょうね。孫は正義なり。まさよしにあらず。

出る釘は浮かれる。
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古賀史健

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