リスペクトとは、どういうことか。

百家争鳴、とはこのことである。

サッカーW杯・ロシア大会がはじまってからというもの、サッカーという競技について、それぞれの試合について、各選手のプレーについて、監督の采配について、たくさんの人がたくさん語り合っている。きのうもタクシーの運転手さんからベルギー戦の感想を訊かれた。試合終了直前の失点について彼は、ああすればよかったんだ、こうすればよかったんだ、の自説を展開していた。ツイッターでも、フェイスブックでも、おそらくインスタグラムでも、さまざまなサッカー論や戦術論が語られているのだろう。基本的にぼくは、たとえその声がどんなに的外れなものであれ、たくさんの人びとが「それ」を語り合う状況をいいものだと思っている。

それで、サッカーにかぎらずぼくが「それ」についてなにかを語ろうとするとき、ひとつだけ気をつけていることがある。

いま、この時期であればサッカー日本代表のたとえがいちばんわかりやすいと思うので、代表を例に説明しよう。

たとえば先日のベルギー戦。にわか監督気分で観戦している自分が、「ああ西野さん、こうすればいいのに!」と感じる瞬間がある。うまいたとえが浮かばないけれど、まあ「2点のリードを守り切るために、長谷部をリベロのポジションに下げて」だとか「ポーランド戦みたいに酒井高徳を右サイドに入れて、デブルイネを徹底マークさせて」だとか「思いきってボランチに大島を入れて」だとか。あるいはもっとシンプルに「川島のスタメン起用はダメだよぉ」とか。いかにも戦況を見極めた妙案のように、そんな浅知恵を思いつく。

でも、そこでいったん、このことばを挟むのだ。


「そんなの、西野さんはとっくに考えついてるよな」


自分のような、テレビの前のにわか監督でさえ思いつくプランなんて、現場の最前線で闘っている西野さんはとっくに考えついているに違いない。考えついたうえで、そのプランを排除しているに違いない。別のプランを選択しているに違いない。

その前提に立って考えると、今度は「なぜ西野さんは『これ』を選んだのだろう?」というあたらしい問いとともに、戦況を見守ることができる。あたらしい風景が見えてくる。自説にとらわれていたときよりもずっと色彩豊かで、広大な風景が。


これは映画を観るときでも本を読むときでも、誰かの原稿を編集したり、添削するときでも同じだ。よほどのことがないかぎり、その人はなんらかの意図をもって、「これ」を選んでいる。ぼくには妙案とは思えないけれど、その人はその人なりの考えがあって、「これ」を選んでいる。だったらまず、あたまから否定するのではなく、自説を押しつけるのではなく、その人が「これ」が選んでいった理由を考えてみよう。そこにはきっと、当事者にしかわからないなにかがあるはずだから。

そのひと呼吸のことをぼくは「リスペクト」と呼ぶのだと思っている。他者へのリスペクトを欠いたことばは、たとえどんなに優れた意見であっても、気持ちよく耳に入ってこない。

取材をする人間として、ものを書く人間として、なにかを語る人間として、ぼくは他者へのリスペクトを忘れない人間でありたいのだ。

鬼にカネボウ。
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古賀史健

古賀史健(2018)

古賀史健の note、2018年分です。
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