そのときわたしが食べているもの。

子どものころ、寿司とは出前で食べるものだった。

大事なお客さんがきたとき、めでたいことがあったとき、ちょうど正月におせち料理を食べるような感じで寿司をとり、食べていた。ワサビや生魚が苦手な子ども時代、安心して食えるネタといえば玉子やかっぱ巻きくらいのもので、大人に合わせて寿司をありがたがってはいたものの、ハンバーグやから揚げのほうが好きに決まっていて、その意味でもおせち料理と同じ位置づけの食べものだった。

そして大人になり、40歳も過ぎ、お仕事関係の方々なんかと、ときどきお鮨屋さんに足を運ぶようになった。寿司が鮨になった。もちろん、おいしいに決まってる。悶絶するに決まってる。けれどもやっぱり、疑念は残る。


いま、おれが食べているのは「ありがたみ」じゃないのか?

どこかのお鮨屋さんで食べる一貫のマグロ。それと、うちの近所にある大好きな中華料理屋の餃子ひとつ。これって「ありがたみ」を排除したら、ほんとのほんとは餃子のほうが好きだったりしないか?


それも含めて「食べる」ということなのだよ、と偉い人から諭されそうな話だけど、そしてちゃんとしたお店で食べるちゃんとした料理のおいしさやうれしさを否定してはいけないけど、やっぱりぼくは「ありがたみ」だけでおいしさを判断する人間にはなりたくないなあ、と思う。誰も知らないけど、ぜんぜん有名じゃないけど、スナックを改装したみたいな内観だけど、やっぱりあそこの餃子はおいしいもの。

なんてことをオフィスでひとり、出前寿司を食べて思ったのでした。お仕事、ちっとも終わりません。

毒を食らわばサラダで。
40

古賀史健

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読みたいときに訪れる、自分用の本棚。
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