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ビジネス書の現在地、その私感。

ちょっと反則技なことを、きょうは書きたいと思う。

いま取り組んでいる本の——冒頭なのか最後になのか——ちょっとした文章を添えようとした。しかしそれは、あまりにも読者に無関係な、自分のなかでもまだ答えの出し切れていない、個人的にすぎる内容だった。編集者さんとじっくり話し合ったうえ、けっきょくボツにすることに決めた。

とはいえ、である。

これは、ことばにしてどこかで書いておいたほうがいい話のようにも思えた。本に入れるにはそぐわないけれど、自分の思いとしてはちゃんと、書いておいたほうがいいと思えた。そんなわけでここに、個人的メモ書きとしてその一部を、書き記しておきたいと思う。広く「ビジネス書」と呼ばれるものが置かれている状況についての私感だ。


 ビジネス書はこれから、どうなっていくのだろう。誰が、なにを、どんなふうに書くのだろう。そしてどんな読者が、どんな本を、どんなふうに読もうとするのだろう。そのやりとりにはいったい、どれだけの価値があり、どれだけの意味があるのだろう。
 ライターとして、あるいは編集者として、たくさんのビジネス書を手掛けてきたぼくは、いつしかそんな疑問を抱くようになっていました。
 たとえばいま、20代や30代のビジネスパーソンに対して「あなたが尊敬・注目している企業は?」というアンケート調査をとったとします。おそらくそこで挙がる企業名の大半は、グーグルやアマゾンを筆頭とするアメリカのIT企業でしょう。彼らが提供するサービスは、ぼくたちの日常に深く入り込んでいます。その変化、進化、衰退も、日本にいながら即座に伝わってきますし、生活そのものを変えていきます。
 ビッグ3(GM、フォード、クライスラー)の自動車メーカー、GE(ゼネラル・エレクトリック)、IBMなどの大企業が君臨していた時代、これらのアメリカ企業は日本人にとってどこか縁遠い存在でした。ジャック・ウェルチ(元GE会長)がなにを語ろうと、ルイス・ガースナー(元IBM会長)がなにを語ろうと、ぼくには遠い異国の物語にしか聞こえませんでした。しかし現在、グーグルをはじめとする世界的IT企業群は、ぼくたちにとってきわめて——もしかしたら日本企業以上に——身近な存在となっています。これは、非常におおきな変化です。
 いま、日本の読者たちが身近に感じ、知りたいと願い、学びたいと思っている企業の大半は、海外にある。日本のどんな経営者よりも、マーク・ザッカーバーグやジェフ・ベゾス、ラリー・ペイジを尊敬し、身近にさえ感じ、話を聞いてみたいと思っている。もしもそうだとした場合、日本の企業や経営者を題材にした(日本人の手による)ビジネス書に、どれだけの価値があり、ニーズがあるのか。ビジネス書の本棚には、優れた翻訳書さえ並んでいればそれで十分ではないのか。自分自身を振り返っても、2010年代に入ってから感銘を受けたビジネス書の9割以上は、翻訳書ではなかったか。
 海外のビジネス書を読んでいて、かつてのように「事例として挙げられている(企業やサービス、人物などの)固有名詞がよくわからず、理解がむずかしい」と感じることもほとんどなくなりました。世界はそれだけ小さく、近しいものになっています。数多あるビジネス書で語られ尽くしてきた「グローバル化の波」は、ビジネス書そのものにも襲いかかっているのです。
 もちろん、日本人が、日本語によって、日本の読者に向けて書き記すべきビジネス書は、いまもたくさんありますし、これから先も消えるはずがありません。それでもやはり、おおきな流れは「あちら側」にあり、実際海外のビジネス書はおもしろい。取材(とそこで得られたエビデンス)の質と量、問題意識の切り口、結末で描かれる「未来」の姿、そこに至る論理展開。あらゆる面において海外のビジネス書は日本のそれを凌駕している。ビジネス書の世界で生きてきた人間として、危機感しかありませんでした。


実際の原稿ではここから、そんな危機感をもって書かれた「この本」についての話が、続いていく予定だった。この本(そこで語られること)には、そんな悩みや危機感を吹き飛ばすだけの価値があるはずだ、これが「ビジネス書」と呼ぶべき本なのかどうかわからないけれど、この一冊で変わることはたくさんあるはずだ、と。


そう遠くない将来に、世に出るはずだと思います。

ここから先のラストスパート、自分を追い込むためにあえて書きました。