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犬と過ごす時間を入口にして。

ほかにいい入口を思いつかないので、また犬の話から入ろう。

仕事を終えて、家に帰る。「おとうさん」の帰宅を待っていた犬が、ぶんぶん尻尾を振ってよろこぶ。うしろ足で立って、飛びついてくる。その姿は、たしかにかわいい。およそ他人には聞かせられないほどだらしない、デレデレにもほどがある犬撫で声を出して、犬を撫でほめる。犬を迎え入れるのだと決めたとき、自分はきっとひどい親バカになるだろうなあ、と思っていたものの、それ以上の親バカぶりを発揮する。

けれどもいちばんうれしいのは、よろこびの興奮でぶんぶん尻尾を振る犬ではなく、いまみたいな寒い季節の夜、ぴったり寄り添う犬が、安心しきった顔でまどろむ姿だったりする。その居場所になれた自分だったりする。

人間関係もまったく同じだ。

その顔を見るだけでぶんぶん尻尾を振ってしまうような、よろこびと興奮が頂点に達するような、いちゃいちゃが果てないような、そんな関係ももちろんいい。そんな時間ももちろんいい。けれどもほんとうにぼくが望んでいるのは、一緒にいることがこのうえない安心につながるような、見栄も虚勢もサービス精神もなんにも必要としない関係であり、場所なのだ。

お互いが「ここにいること」を無条件に肯定し合える関係。役に立たないことによって、役立ているような関係。お酒はそれを後押ししてくれるすばらしい液体だけれども、できればお酒がなくてもそれが実現するような場や関係を、できれば「愛」みたいな大層なことばに頼ることなく、自分の日常につくっていけたとしたら、そんなにうれしいことはない。


きょう、ある本の打ち合わせで、そんなことを考えた。