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知らないことと、知ってること。

鉄道ファン、いわゆるところの「鉄オタ」という人たちがいる。

オタクという名前が普及するはるか以前からその種の人々はいて、たとえばぼくが子どものころにも『銀河鉄道999』の影響もあってか、ブルートレインと呼ばれた寝台列車が大ブームとなっていた。わが家にはブルートレインで全国をめぐる、人生ゲームの鉄道版みたいなボードゲームもあり、友だちや親戚が集まったおりには、おおいに遊んでいたことを記憶している。

そしてまた現在は「撮り鉄」と呼ばれる人々もいて、古い形式の列車による「ラストラン」の際などには、列車よりもむしろ集まる撮り鉄のほうが注目を集め、よくも悪くもニュースになったりしている。

とはいえやはり、列車は撮るものというより乗るものだろう。ぼくは鉄オタでも撮り鉄でもないものの、旅行先や出張先で乗る電車がとても好きだ。

たとえば先日福岡に出張を兼ねた帰省をしたのだけど、正直繁華街を歩いているのは国内外からの観光客ばかりで、建ち並ぶビルやそこに入るテナントも東京とほとんど変わらない。全国の大都市はたいていそうだろう。

しかしながら電車に乗ると、ぐっと地元の匂いがつよくなる。地元のことばが聞こえ、地元の風景が流れ、車内にはちゃんと地元の広告が貼られ、またぶらさがっている。

地元にしかない百貨店の広告。知らない一等地の不動産広告。パチンコ店、学習塾、質屋さん、ゴルフ用品店、いろいろのローカルな車内広告がそこには踊っている。おめかしをした繁華街とは違う、「生活」が全面に押し出された広告群だ。その広告のわからなさ(共有可能な地元情報の少なさ)に、「ああ、自分はずいぶん遠くまできたんだなあ」と思う。知ってるようで知らないものに囲まれてようやく、自分が旅行者であることを知るわけだ。

一方で海外に行くとぼくの場合、旅行中に一度はマクドナルドやスターバックス、ダンキンドーナツなどのファストフード店に駆け込んでしまう。せっかく海外に着ておいてなぜにマクドナルド、と自分でも思うのだけど、ほんとうに知らないものだらけのなかで過ごしていると、つい「知ってるもの」をありがたく感じ、なつかしく感じ、つかの間の安心を得るため、うまくもないファストフード店のコーヒーをすすったりしているのだろう。


「知らないこと」のなかに飛び込んでいかないと、人生はつまらなくなる。けれどもそこに、ほんの少しの「知ってること」を確保しておかないと、道に迷ったり心が怪しくなったりする。

ときおり本を書くことは「知ってること」を書くことだと思っている人がいるけれど、そんな本がおもしろいはずはなく、「知らなかったこと」を書くからおもしろいのだと、ぼくは思っている。「知らないこと」を知らないままに書いてちゃダメだけどね。