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おもしろい作文には、目と耳がついている。

先日、小学生の書いた作文をいくつか読む機会があった。

コンクールの入選作がまとめられた冊子だ。おおきな賞をもらっているのはたいてい女の子で、実際に彼女たちの作文はおもしろかった。そしてすべての掲載作を読んだわけではないものの、男の子たちの作文はいかにも男の子という感じだった。まあ、性差として語るのはよろしくない。読んでおもしろい作文とそうでない作文として、話をしよう。

おもしろい作文には、目と耳がついている。

わたしという書き手の目と耳が、筆を執らせている。そのためわたしの目に映るものが微細に描かれ、耳に聞こえる声が書きとめられる。読者は「わたし」の目と耳を借りて、その世界を見る。おかあさんの姿、テーブルに置かれたお茶碗、玄関に散らばるカラフルな靴、さっちゃんの呼び声、おおきく吸い込んだ息。なんでもない生活の一場面であっても、「わたし」の目と耳を通じてしか知ることのできなかったその世界は、豊潤で美しい。

おもしろくない作文は、頭で書かれている。

目がついておらず、耳もついておらず、ただ記憶のスープをことばの棒きれでかき混ぜている。読者はなにも見ることができず、聞くこともできず、書き手の記憶とその独白を追いかけていくことだけに、時間を費やされる。

と言うと「つまり、情景を描けばいいんですね」と早合点する人がいるが、そうではない。

以前、ある漫画家さんからこんな話を聞いた。

たとえば新人のアシスタントに、背景を描かせる。背景の一部に、テーブルに置かれたマグカップがあったとする。するとほとんどの新人たちは、マグカップを見ずにマグカップを描く。つまり「記憶のなかのマグカップ」を、描いてしまう。しかし、マグカップが記憶どおりの姿をしていることは稀である。しかも、その人がどんなマグカップを使っているかによっても、登場人物のキャラクターを描き分けることができる。マグカップを描くように指示して「記憶のなかのマグカップ」を描いてくる子は、前途多難だ。


頭で書かれた作文も、これと同じ罠におちいりやすい。なんらかの情景を描きながらも、それが自分の目を伴わない(映画やドラマで見た)記憶のなかの情景だったりするため、読む者を「そこ」へ連れていってくれないのだ。

おもしろい作文、おもしろいエッセイには目と耳がついている。

おもしろい作文、おもしろいエッセイを読むときぼくらは、書き手の目と耳を借りているのだ。