ぼくは文学少年じゃなかったから。

思いっきり、どうでもいい話を書こう。

ぼくは「若い女の子」にあまり興味がない。……と言うと、いつのころからか「じゃあ熟女が好きなんですか?」という返しがあたりまえのようにくるようになったけれど、そういう話をしているわけではない。一緒にいてたのしいな、うれしいな、いい時間だったな、また会いたいな、と思える間柄の話として、ぼくは若い女の子にあまり興味がないのだ。

たとえば自分より20歳下、つまりは25歳の女の子と飲みに行ったとする。高校生のころは25歳なんてとんでもないお姉さんだと思っていたけれど、いまのぼくにとっては相当に「若い」年齢だ。そういう子とお酒を飲んで、年長者への礼としてチヤホヤしてくれたりすれば、それはそれでくすぐったく思うだろう。けれどもやはり、全体として疲れるだろうなあ、と思う。

端的に言って、なにを話せばいいかわからない。「おれがきみくらいの年齢のころは〜」なんて話はしたくもないし、向こうだって聞きたくなかろう。かといって「へええ、いま若い子のあいだではこんなのが流行ってんだ」なんて話も、本気になって聴くのはむずかしい。

じゃあ、共通の趣味について話せばいいじゃないか。わざわざ年齢差を前提とした話題を選ばず、本でも映画でも、お互いの「これが好き!」を話して「あっ、おれも」とか「そうそうそう」とかの話をしていけばいいじゃないか。誰もがそう思うだろうし、ぼくもそう思う。


それで最近気がついた。

たとえばぼくが文学少年としての過去を持つような人間だったら、それも可能だっただろう。年齢や性別を飛び越えて、文学少女と好きな作家の話で盛り上がることもあるだろう。お互いに「そんな読み方もあるのか」と驚いたり、刺激を受けたり、夢中な時間が過ぎていくだろう。


でも、きっとぼくの本質は、ロック少年であり、スポーツ少年なのだ。

残念ながらこれらは、いずれも同時代性が欠かせない、刹那的コンテンツである。あのとき、どこで、誰と、なにをしていたか。そんな「あのときのおれ」とのリンクが欠かせないコンテンツである。だから、たとえば20歳下の子と語り合う「イチロー」よりも、同年代の子と語り合う「イチロー」のほうをずっとおもしろく感じてしまう。それはストーン・ローゼズでも、レッチリでも、ニルヴァーナでも、ベックでも、あるいはオアシスでも同じだ。そして、たぶん音楽やスポーツ以外の話題であっても、ぼくは「あのとき、そこにいた」や「同じ空を見ていた」の接点をおもしろく感じるのだろう。


逆にいうと、もしもぼくがロック少年やスポーツ少年とは違う人生を歩んでいたら。無趣味だったり、文学少年や映画少年だったら。ぼくももうちょっと「若い女の子」に鼻の下を伸ばしたりしていたのかもしれない。

イチロー選手について、あるいはもろもろのセクハラ話について、うんうん考えているうちにそんなことを思った。

出る釘は浮かれる。
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古賀史健

古賀史健(2018)

古賀史健の note、2018年分です。
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