こまったちゃんの木曜日。

今日みたいな日は、ほんとうになにを書けばいいのか困る。

あたまのなかにあることを普通に書こうとしたら、やっぱり政治の話になる。けれどもまあ、できればそんな話はしたくない。ぼくはここで誰かと議論をし

たいわけでもないし、政治的意見を表明する場所は投票所で十分だと思うし、せいぜいお酒の席で雑な下ネタなどと一緒に語っていれば、それでいいような気がする。

あとはまあ、政治の話をしようとすると、大抵が「反○○」の話に収斂していくのだ。

たとえば55年体制下の自民党とは、ひと言でいえば「反共」だけでまとまって支持された政党だったのだと思う。そして90年代の細川さんは「反自民」だし、これは小泉政権もそうだ。さらに再び「反自民」でまとまった民主党政権を経て、ここ数年はずっと「反民主」というか、「さすがにもう民主党は嫌だよ」の支持層による安倍政権が続いてきた。そしていまは「反安倍」?

こうして「反○○」を旗印に人びとが集うとき、仮想敵の○○が強大であるほど場の熱は高まるのだと思うけど、どうも時代を経るごとに「反○○」の相手がちいさくなって、ほとんどいちゃもんのような反旗を振り回しているように見える。


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これってじつはビジネスやクリエイティブの世界でも同じことが言えると思っていて、たとえば10代〜20代くらいのあいだは「アンチ○○」で間に合うし、その声をあげるべきだし、上の世代を追い落とすことはおもしろいものだと思う。けれどもどこかで「なにかのアンチ」ではない、ほんとうの自分の声やアイデアをぶつけていかないと、次に進めなくなる。アンチとは、先細りするしかない態度なのだ。

ぼくの仕事まわりでいうと「出版のアンチとしてのインターネット」を語っているあいだは、あんまりおもしろくない。テスラの電気自動車が魅力的に映るのは、きっと「ガソリン車のアンチ」としてあれがあるのではなく、ただただ「最新鋭のスーパーカー」を追い求めているように見せているからだろう。


自分が口にしている威勢のいいことば。それが「なにかのアンチ」なのか、そんなもの眼中にさえない「あたらしいなにか」なのか。こういう機会にしっかり考えておきたいものですね。

毒を食らわばサラダで。
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古賀史健