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期待されること、信頼されること。

きょうは月末、ものすごく追い込まれています。

いつも以上に書き飛ばしていくと思うので、文章が粗くなってしまうだろうことを、あらかじめ断っておきます。「なんだ、ばかやろう」は荒井注さんで、ここから先は粗い文さ。はあ、ぼくはなにを言ってるんでしょうか。ともかく書きます。

最近、自己認識の根っこについてよく考えます。

たとえば、あたらしいお仕事の依頼があったとしますよね。「ぜひ、きみにお願いしたい」と荒井注、じゃなくて発注があったとしますよね。なかには「おれなんかに任せてもらえるんですか」というようなご指名もあったりしますよね。そうやって少しずつ、大人になっていきますよね。まあ、仕事じゃなくても、飲みの誘いでもなんでもいいですよ。

で、そういう声がかかったとき、声をかけてくれた相手の心をちゃんと理解しなきゃなあ、と思うわけです。


つまり、相手はぼくに「期待」してくれているのか。

それとも、ぼくを「信頼」してくれているのか。

ここの見極めを誤ったまま、つまり「期待」された事実をもって「信頼」されたのだと考えたり、あるいは「信頼」を寄せられているにもかからわず、「期待」のレベルなのだと勘違いしたりすると、それはおおきな事故を招きかねないなあと。

たとえば、調子に乗ってる人というのは「期待」を「信頼」だと思っている人ですよね。そして疑り深くて卑屈な人は「信頼」を「期待」だと思っちゃう。前者はサボるし、後者は無理をして心身を壊す。期待を損ね、信頼を失う。

逆の立場、する側の立場で考えると、ぼくにも「期待している人」と「信頼している人」が、それぞれ何人もいます。ちゃんと伝わってればいいな。

これ、もうちょっとドタバタしてないときに、時間をかけて考えるべき話ですね。期待と信頼を損なわないよう、仕事に戻ります。