見出し画像

自分を消した先に残るもの。

ライターの仕事をはじめて間もないころ、いかにして「わたし」を消すか、に苦心していたおぼえがある。たとえばお店の紹介記事を書くとき、新製品の紹介記事を書くとき、まだ無記名の原稿ばかりだったこともあり、ひたすら「わたし」を消すことを心掛けていた。

それはいつしか「誰もわたしの話など聞きたくないのだ」という自己認識につながり、ものを書くときのみならず、人と会うときにも「わたし」を消すような立ち居振る舞いが身についていった。自分の顔と名前を出して、メディアで活動する同世代の人たちを横目に見ながら、自分はあそこにはいかないだろうなあ、これといって主張したいこともないもんなあ、と思っていた。

そんな思いに少しずつ変化が出てきたのは、本の原稿を書くようになってからのことだ。10万字にもおよぶ原稿を書こうとしたらどうしたって「わたし」が出る。誰かに取材し、その声を、その人の言葉でまとめていった原稿だとはいえ、「わたし」が出ないなんてありえない。

けれどもそこに出てくるのは「わたしの主張」ではない。「わたし」として、声高に「主張」したいことは、相変わらずなにひとつない。あるのはただ、「わたしの理解」だ。


「わたしはこの道をたどって、こう理解しました」。


その「理解のしかた」に、ぼくというなんでもないライターの、「わたし」が出る。いわゆる「わかりやすい文章」ってやつは、ひとえに書き手がその対象をどれだけ深く理解できているか、にかかっているのだと思う。

平易な言葉を使えばいい、というわけではない。それは物事を単純化しかねない、危険と隣り合わせの選択だ。漢字をひらがなに開けばいい、というわけでもない。書き手の理解が及んでいないひらがな表記は、読者を煙に巻くだけの拙い技巧におちいりかねない。

ただ理解につとめること。
そして「自分がどう理解したのか」を理解すること。


なんだか結論もまとまりもない個人的なメモ書きになってしまいましたが、このまま終わります。