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ぼくの考えるおじさんの定義。

反面教師というほどではないにせよ。

若い人でありたいなあ、と思う自分がいる。一方でまた、「じじい」にあこがれる自分もいる。老害なんてことばをとっくに飛び越えた、面倒くさくていとおしい、少年マンガに出てくる仙人みたいな「じじい」だ。しかしながら若い人がそのまま「じじい」になることはできない。その道程にはかならず「おじさん」の時代が含まれる。ここを避けて、どうにか「じじい」へとジャンプできないか。そんなことを考える。年齢的には疑いもなくおじさんである自分はどうも、おじさんがあまり好きではないのだ。

おじさんのおじさん性が立ちあらわれるのは、おじさん同士で群れ合っているときではない。若くてまっすぐな人と接したとき、おじさんはおじさんになる。

若い人とはその名のとおりに生きてきた時間が短いのだからして、おじさんよりも経験が足りない。知識の不足もあるだろうし、視野も狭かったりするだろう。そういうさまざまの不足を抱えた若い人にとって、唯一の武器といえるのが「真剣」だ。まっすぐな若い人は、その人なりの青臭い「真剣」を携えて世に飛び出す。それ以外にやりようがないのだ。

そして若い人の「真剣」に触れたおじさんは、それを茶化す。せせら笑ったり、くだらない冗談を返したり、みなまで聞かず否定したり、さまざまなる手段で茶化す。突きつけられた「真剣」に目をつぶることで、自分の身を守ろうとする。

自分が「真剣」をさぼっているからだ。もう長らく「真剣」からご無沙汰しているせいで、誰かの「真剣」を受け止めることができないのだ。茶化すくらいしか、身の守りようがないのである。

さて。自分の「真剣」を茶化された若い人の負う傷は、相当におおきい。それを奮発の材料にすることができればいいけれど、多くの場合、せっかくの「真剣」がくじかれてしまう。もしかするとそこから「真剣」をあきらめ、おじさんに続く道を歩んでしまうかもしれない。


というわけで、ぼくにとってのおじさんとは誰かの「真剣」を茶化す人であり、つまりは「真剣」をさぼっている人であり、おそらく二度と「真剣」を手にできない人の総称である。

……なんてふうに書くと、いかにも息苦しい考え方に聞こえるかもしれないけれど「真剣」と「たのしい」は両立するものだし、むしろほんとうの「たのしい」は真剣の先にしかないのだと、ぼくは思っているのです。