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わたしはファンになりたい。

最近、ネパール料理をよく食べる。

もちろんあれだ。ネパールに行って、ネパールという国とそこに住む人たちが好きになって、その料理にベタ惚れしちゃったからだ。帰国後、何人ものひとにネパール旅行をおすすめした。もはやネパールのファンだし、ネパール料理のファンだと言ってもいい。

考えてみるとこの1年、ぼくはたくさんのものを好きになり、ファンになった。幡野広志さんと田中泰延さんの影響で、写真が好きになった。見ることではなく、撮ることがたのしくなった。あるいは今年、がっつり矢沢永吉さんのファンになった。年末にはライブにも行く。たのしみでならない。そしていま、ラグビーのファンになり、日本代表以外の試合もたのしく観戦している。そうそう、このまえ映画化された『ファブル』も、今年に入ってからファンになった漫画だ。

去年のいまごろは、どれも想像していなかった自分だ。


あたらしく趣味を持つ、なにかを学びはじめる、みたいな話はどうしても腰が重たくなってしまう。これは20代のころからそうだったし、30代、40代と、どんどん腰の重さは増してきた。たぶん今後、ますます重たくなるのだろう。

でも、「ファンになる」は軽い。

専門家になるべく知識を詰め込む必要もなく、技術や能力を向上させる必要もなく、飽きたときには素直に飽きればよく、ただふんわりと「ただのファン」でいればいい。もしもマニアや専門家があれこれ面倒くさいことを言ってきても「すみませーん。ぼく、ただのファンなんで〜」で済ませればいいのだ。

50歳にして天文学の道を志し、結果として全国測量の旅に出ることになった伊能忠敬のような、文字どおりの「第二の人生」を生きなおす道。たとえるならこれは、海外への移住だ。じぶんの国籍を変えてしまうくらいの大仕事だ。たぶん、ぼくにはできない。

でも、さくっと飛行機に乗り込んで、その国を旅すること。旅行者まるだしのルックスで、観光地を訪ね歩くこと。「ファン」には、そういう気楽さがあり、けっきょくあたらしい扉とは、4泊5日の小旅行みたいなところから開かれるのだ。


来年や再来年のぼくは誰のファンになり、なにのファンになっているのだろう。そこで開かれるあたらしい扉を、いまからたのしみにしている。

オリンピックで誰かのファンになるのは間違いないから、パラリンピックだなあ。今度のパラリンピックでそういう誰かと出会うことができたら、なにか扉が開くんだろうなあ。