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割れゆく電球の愛おしさ。

試行錯誤はおもしろい。

たとえば、どのラーメン屋さんにもなんらかの「このスープができるまで」の物語がある。鶏ガラをベースに、豚骨をこれだけ加えて、そこにかつお節を入れてみて、イマイチだったのでさば節に変えて、ねぎの代わりに玉ねぎを試してみて、みたいな物語だ。たしかにそうやって語られる物語は魅力的で、素直に「すごいなあ」「なるほどなあ」と思わされる。しかし、ほんとうにおもしろいのは完成された物語ではなく、「ここにかつお節を入れたらどうなる?」と思いつく瞬間、その生々しい期待や興奮の感情である。

物語として振り返ったとき、それらはすべて「試行錯誤」のひと言に集約される。たしかに、完成したスープを前にして振り返れば、かつお節のアイデアは失敗だった。錯誤だった。けれども「ここにかつお節を入れたらどうなる?」と思いついたときの興奮は本物であり、まったく錯誤ではない。

試行錯誤ということばには、どうも悪戦苦闘みたいな「苦しさ」がつきまとうのだけど、その実際は(使えるものも使えないものも含めて)アイデアがじゃんじゃん湧き出し、「これだったらいける!」と興奮しまくっている、めちゃくちゃにたのしいプロセスであるはずなのだ。

しばしばマンガで、頭のうえの電球がピカーンと点灯する「ひらめいた!」みたいなシーンが描かれる。あたかもアイデアは、その電球ひとつで商品化されるもののように語られる。でも、違うんだよ。電球は、何個も何十個も割れるし、割れても割れても次のピカーンがあるんだよ。そのぜいたくすぎるプロセスが、試行錯誤なんだよ。


いま、夏ごろに刊行予定の本、その原稿に試行錯誤している。そりゃあ苦しいさ。それでもこんなにおもしろくてスリリングな時間もないんだよ。割れた電球を片づけながら、そんなことを思っている。