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目に映る景色を変えてこそ。

前にもきっと、書いた話だ。

2011年の3月11日、ぼくは自宅近くに借りていた仕事場で、原稿を書いていた。前日から泊まり込み、へろへろになりながら徹夜で原稿を書いていた。そして翌月、ぼくは加藤貞顕さんと一緒に東北を取材した。夜行バスの、たしか会津経由で仙台に入り、そこからレンタカーを借りて石巻市と女川町を取材した。北京の子どもたちから預かった応援メッセージを、女川町の子どもたちに手渡すことが、いちばんの目的だった。まだまだ余震も頻繁で、町は瓦礫だらけだった。

その後、いろんなご縁があって何度も東北に足を運んだ。訪れるたびに町はきれいになり、復興のたしかな手応えを感じる。というかこの数年は、復興なんてことばを忘れたまま、ふつうのお客さんとして観光をして帰ることも多くなった。


で、2011年の3月11日。

壁の3面が本棚で埋めつくされていたぼくの仕事場は、当然ひどいことになった。とくにいちばんおおきな本棚からはバサバサと本があふれ、足の踏み場もないような状態だった。あの日は金曜日だったと記憶している。週末をはさんだ月曜日、ぼくはせっせと仕事場の片づけをした。散らばった本を所定の位置に戻し、崩れた書類の山を処分し、たくさんのゴミを出して、身のまわりをきれいにした。原稿の締切はとうに過ぎていたけれど、原稿よりも先に、それをやるべきだと思った。「片づけないと、仕事がはかどらない」という実務的な理由からではない。こころの問題として、視界に入るものをきれいにしておかないと、前に進める気がしなかったのだ。片づけなかったら、自分がずっと「そこ」にいる気がしたのだ。


復興の名のもとに変わりゆく、東北の風景。残念そうな口ぶりでそれを語る声を、ときどき耳にする。波に飲まれた建物その他をもっと残して、震災の記憶として、その遺産をずっと残していくべきだと、彼らは語る。

いやいやいや。と、ぼくは思う。

目に映る景色を変えてこそ、ぼくらは前に進めるんだよ。そこで暮らしていない人たちが、安っぽい感傷や正義でそんなこと言ってんじゃないよ。あなたはあのとき食器や本や時計が散らばった自分の部屋、そのまま片づけずに暮らしていけたと思う? 気持ちを前に、切り替えられたと思う?

そんなふうに、ぼくは思う。


こんまりさんの片づけ本が世界的なベストセラーになった理由も、よくわかる。身のまわりを片づけること。あるべき場所に戻すこと。目に映る景色を変えること。それは自分を前に進める、息苦しい「ここ」から一歩踏み出させる、大事な大事な「こころのお引越」なのだ。


ぼくもそろそろ、オフィスと自宅、お片づけします。