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一球入魂よりもたいせつなこと。

一球入魂、ということばは、有無を言わさぬ迫力をもつ。次があると思うな、この一球にすべてを賭けろ、のことばは、とてつもなく強い。

けれども実際の打席には、ボール球やファウルボールを含めると、七〜八球くらいのチャンスが優にある。しかもひとつの試合に回ってくるのはだいたい四打席くらい。一打席を八球だとした場合、三十二球ものチャンスがめぐってくる計算だ。これを「三十二球入魂」と考えるのか。それとも「三十二分の一球入魂」と考えるのか。野球にかぎらず、いろんなスポーツやお仕事、はたまた恋愛なんかにいたるまで、この思考実験は応用がききそうだ。

おそらく、ひとの在りかたとしてうつくしく、かっこよく見えるのは三十二回のチャンスがあるとも仮定しない、文字通りの一球入魂スタイルだろう。

ところが一球入魂を意識しすぎると、失敗がこわくなる。

ベテランの域に達した作家(小説家や映画監督、ミュージシャンなど)さんたちの多くは、だんだんと大作志向になっていく。それはどでかい作品をつくるだけの技量や信用が蓄積されていったからというだけでなく、どこか「失敗を許されない立場」に追い込まれてしまったことも、関係しているような気がする。一球入魂を思いつめるあまり、打席に立つことさえこわくなるのだ。

ぼくらがイーストウッドやウディ・アレンのような多作家に信用を置くのは、彼らが「傑作しかつくらないから」ではない。

一概に傑作とは呼びづらい作品も含め、随所に「そのひとらしさ」を感じさせ、まるで旅先からの絵手紙を受けとるような気分で、彼らの旅路と「いま」をたのしみに待っている。

一球入魂のうつくしさと強さを認めつつも、ファウルフライや併殺打を厭わず打席に立ち続けること。一球入魂を言い訳に、打席から足を遠ざけないこと。ほんとの一球入魂(つまりは百発百中)なんて、ぜったいにありえないのだと受け入れること。


うーん。最近ちょっと一球入魂マインドに傾きすぎてるじぶんに危機感をおぼえて、こんなことを書いてみました。