「思う」と「言う」の距離について。

ぼくは「言いたいこと」をあまり持っていない。

たとえば「いま国会を賑わせているあの問題について、お前はなにも言いたいことがないのか」と問われたら、たぶん「ない」と答える。なんと嘆かわしいやつだ、お前のような人間がいるからこの国の民主主義は……とかなんとか言われても、ないものはない。「言いたいこと」は、ないのだ。

ただし、「思っていること」はたくさんある。政治にかぎらず、経済であれ、社会問題であれ、芸術やスポーツまわりのことであれ、「思っていること」は山ほどある。けれどもきっと、ぼくは「思う」と「言う」のあいだの距離が、騒々しく忙しい人よりずっと遠いのだ。


なので、「思う」と「言う」がぴったりくっついた、「思う」と「言う」のあいだになんの距離も感じさせない人を見ると、単純におもしろいし、あこがれる気持ちもある。あんだけしゃべれたらさぞかし気持ちいいだろうなあ、とバイリンガルを眺める中学生のような目で見てしまう。

一方でまた、「思う」をたっぷりためていた人が、なにかをきっかけに訥々と語りはじめる瞬間も、とても好きだ。


外国に行ってもどかしいのは、「思う」と「言う」の距離が日本語の何万倍も遠くなってしまうことだ。そしてときどき「言う」がおぼつかないぼくのことを、「こいつは『思う』もできていないんじゃないか」と、あほを見るような目で苦笑する人がいることだ。これは逆でも同じことがいえて、たとえばコンビニや居酒屋ではたらく外国人たちの、「言う」がおぼつかないとき、うっかりそれを「思う」の足りなさだと考える人たちがいる。泥酔客の多い居酒屋でぼくは、たびたびそういう光景を目にしてうんざりしてきた。


みんな「思って」いるんだよ。なかなかことばが出てこないのは「言う」までの距離が遠いから、それだけなんだよ。

といった話もまた「言いたいこと」というよりも「思っていること」だ。


どうやらぼくにとっての note は「思う」を記録する場所らしい。

壁に耳ありジョージとメアリー。
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古賀史健

古賀史健(2018)

古賀史健の note、2018年分です。
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